「作画崩壊」っていう発想と育ってきた環境





作画崩壊の話を聞いて、2007年の初め頃にあったとある出来事を思い出した。


友人Aは、今までほとんどアニメを見ることはなかったのだけど、「ハルヒ」をきっかけにからアニメを見始めるようになり、いろいろと他の作品も見るようになっていった。


まだ、「エヴァ」を見たことがないので、僕の持っているDVDを貸した。その時のエヴァを見たときの反応が、



「アスカの顔とか時々変になるよね。マグマダイバーの時とか。これって作画崩壊っていう奴なのかな。」


と言ったことがあった。






作画崩壊っていう言葉を使ってしまうのは、「育ってきた環境が違う」が大きな原因だよなと感じてしまう。キャラ造形が毎回整っているアニメを見てきて育った彼にしてみれば、回によってキャラの顔が違うなんてかなり異質なことなのだろう。彼はそれに対して少なからずも不快と感じ、作画が崩壊していると口走ったのだと思う。それは、ゆとりでもなければリテラシーの低下でもなく、アニメを見てきた環境が昔からアニメを見てきたアニオタとは全然違うのだから、作画が崩壊しているという発想に辿り着くのは自然なことなのかもしれない。そもそも彼らは、「いつもと絵が違う」という事を言葉にする時、「作画崩壊」と言う言葉しか知らないのだから、必然的に使ってしまう。







作画崩壊なんて言葉をよく聞くようになったのは、2005年頃だったかな。2003年頃にはまださほど使われなかったように思える。作画崩壊って言葉が使われてきたのは、毎回均質でキャラデザ通りのアニメ作品を見てきて育ってきた人たちがいるからなんだと僕は思うな。




もちろん、制作スケジュールが圧迫してきて、作画の質が低下するのとアニメーターの個性は全く違う。キャベツを作画崩壊と言うのと、うつのみや理の「アクエリオン」第7話や小林治の「グレンラガン」4話は、全くの別物だしね。でもそれが同質だと思ってしまうが今の現状なんだろうな。







あと「イタズラなKiss」の二期EDの門之園恵美さんのなんて僕は結構好きだ。



それと「ワールド・デストラクション 〜世界撲滅の六人〜」第三話は違うだろうに。



それとふと思ったのが、作画崩壊って「キャラの顔」限定なのかな? 登場人物の体がいつもよりも俄然ムッチリとなる金子ひらくさんの回なんか、作画崩壊と騒がれるとき時によく聞く「いつもと違う」状態なんだと思うけど。