『獣の奏者エリン』最終話が面白い〜音無し笛からの解放と生きることへの意志〜

 第50話「獣の奏者」は、第1話「緑の目のエリン」と同じく、脚本は藤咲淳一さん、絵コンテ・演出は浜名孝行監督と布施木一喜さんとの連名になっている(第14話「霧の民」でも同じ布陣だけど、あれは一応総集編)。

 作画監督には、多分シリーズ中初めての作監になる後藤隆幸さん。今作品ではキャラクターデザインを担当しており、最終回にして登場。

 最終回らしく力の入った濃い内容になっていました。珍しく3DCGも多用されていた(空を飛ぶリランを描くにはその方が適当だったのだろう)。コンテは布施木一喜さんと連名だけど、浜名孝行監督っぽさが漂う感じに。

 第50話で感じたことを色々と書いていきたいと思います(誤字・脱字が結構あるかもしれませんが)。



エリンとリラン


 第50話「獣の奏者」は、エリンとリランの関係が、真王と大公の関係や引いては人と獣との関係へと波及していき、それぞれに影響を及ぼしていくことになる。また、エリンの命を捨てる覚悟から「生きたい」という気持ちに変化する所や、音無し笛に縛られていたリランが変化する所も見所だと思います。


 アバン。エリンはシュナンを助けるようにとリランに命じる。ここではエリンの視点というよりも、リランの視点で描かれており、リランの瞳の超クロースアップ(エリンの方を見ている)から、エリンに音無し笛を吹かれた時の回想、そしてエリンの首にかけられている音無し笛のクロースアップと繋がれ、再びリランの瞳の超クロースアップへと戻る。このカットの繋がれ方によって、リランがエリンの持つ音無し笛の恐怖から命令に従っているかのような姿を視聴者に提示する。当たり前の話だが、リランは言葉を発するわけもなく、その思考が表にあらわれることはなかったが、カットの繋がれ方により、リランが抱いている思考を視聴者は共有することになる(このようなリランの視点を描くということはこの作品にとって珍しい出来事だと思う)。


 このエリンを見る、音無し笛を見る、リランの描写はこの後繰り返して描かれる。
 
 アバンで提示された「音無し笛による従属の関係」が今後どのよう変化していくのかが今回の挿話にとって重要になってくる。


 元ちとせさんが歌う「雫」と共にOP映像が流される。このOPはイメージの連鎖によって構築されている。はじめに映し出されるのは、白い雲をかきわけてリランの背に乗って飛翔しているかのような大空の映像。そこから空の風景に溶け込む山々へ、山々の麓に拡がる森林へと繋がっていく。森の中の木々へと移り、木の幹が根を下ろす大地へとカメラは移動する。剥き出しになった土から青く咲く花へと連鎖し、青い花々は水の中を自由に泳ぐ魚たちへと姿を変える。無数に泳ぐ魚たちから、無数に空から降ってくる粉雪(だと思われる)へと連鎖する。粉雪が画面に作りだす点景が、大空を飛翔し太陽に照らされ白く輝く王獣たちへと連鎖し、OPは終了する。空、山々、木々、土、花、水、魚、雪、王獣、空と連繋していき、OPで画面に映し出されたものたちは、この世界を包括したものとなっており(魚、鳥、花、木など)、流れる「雫」の唄とともにこの世の万物を描いている。



 OPが終わり、Aパートに入る。



 シュナンの元へヌガン率いる闘蛇の軍勢が襲いかかるその瞬間、リランの咆哮と共にカメラが大幅に引き、その咆哮が、音波が闘蛇の軍勢へと襲いかかり、全ての闘蛇をひれ伏させてしまう。抽象的に描かれたリランが闘蛇たちを喰らい始め、屈強な闘蛇たちは全く為す術もなく、リランの牙によって引き千切られ、喰われていく。エリンは闘蛇を喰らうリランに対して、「もういい。やめなければ音無し笛を使ってやめさせる」と言って音無し笛を口にくわえる。ここで、アバンの出来事が反復される。エリンに音無し笛を吹かれた時の回想がインサートされ(ここまでくると執拗と言っていいと思う。それほど強調したいことだったのだろう)、騎馬隊が矢を放ってきたこともあってか、リランはエリンの命令に従う形になり、闘蛇を喰らうことをやめ、空へと飛び立つ。繰り返し描写される音無し笛による従属関係、前述したとおり後々意味を持ってくることになる。この後、シュナンを助けにいくようにとエリンはリランに命じる、その時のリランは睨みつけるようにエリンを見る。その睨みつけるような瞳からは、もう昔のように、カザルム王獣保護場で過ごしたあのエリンとリランの関係は、もはや消えてしまったかのように思わせる。第43話「獣ノ医術師」でエリンが音無し笛をリランに向かって吹いたあの日に、エリンが獣の医術師として生きていくと決めたあの日を境として、エリンとリランの関係は変化した。


 シュナンを助けるため、地上へと降りたエリンとリラン。シュナンをリランに乗せる最中に、騎馬隊が放った一直線の軌道を描く矢がエリンの背中へと刺さり、彼女は倒れてしまう。矢が刺さる瞬間のショットには、エリンとリランが同じフレームに収められており、その時に捉えられるリランのリアクションを見ると、エリンの身に起きた何かしらの異変は感じ取っているように思える。

 矢が刺さったエリンをただただ見つめるリラン。エリンは、リランに向かって「行きなさい」と言い放ち、胸の音無し笛を取り、リランへと見せる。音無し笛以外は、砂嵐のようにノイズがかかったモノクロの映像となり、カラーの音無し笛だけが強調される。リランの瞳の超クロースアップが捉えられ、この超クロースアップがリランの内面を推し量るものとして機能する。リランはエリンが持つ音無し笛に従うかのように、シュナンを背に乗せ、空へと飛び立っていく。



 エリンは自分を残して、リランを飛び立たせたところをみると、この段階では命を捨てる覚悟があったのだろう。それは携えていた短剣が示すように揺るぎない覚悟、死する覚悟をエリンは確実に持っていた。しかし、その命を捨てる覚悟は、大空を飛び立つリランの姿を見て変化していく。

 涙を流しながら飛び去っていくリランを見つめるエリン。カザルム王獣保護場でリランと一緒に過ごした回想シーンが映し出され、回想が終了するのと同時に彼女は地面へと倒れ込む。

 リランが自由に大空を飛び立つイメージが映し出される(シュナンを乗せてはいなく、エリンの思い描くイメージだというがわかる)。それと同時にエリンの台詞が流れる。


「あなたのことが知りたくて、ただそれだけでいっぱいだった。私はあなたが幸せに生きる姿を、まだ知らない。野に帰ったあなたがどんな声で鳴くのか、まだ知らない」


 最終的にイメージ映像は、太陽(だと思われる。宇宙空間っぽいし)を模した中に入っていくリランの姿を捉える。太陽に入ったリランは黄金に輝き、母・ソヨンの「生きなさい、生き延びて幸せになりなさい」という声が響き渡る。ここで登場する燃え上がる太陽とその内部で輝くリランは、生命の輝きそのものを象徴するものだと思える。命を燃やすかのように、光輝く太陽と黄金に光り輝くリランが、エリンに生きる渇望を、まだ見ぬリランの姿のために「生きること」への強い願いを呼び起こさせることになり、彼女は眼を覚ます。Bパートに入り、命を捨てる覚悟でいた彼女が、背中に矢が刺さりながらも歯を食いしばりながら立ち上がり、「私は生きたい」と強く願う姿は観る者に深い感動をあたえずにはいられない。「生きること」を決意した彼女は、大空を飛翔するリランの姿のように、力強く、何よりも美しい。


 リランが飛翔する姿は、見た者を変える力を持っているように思える。


 生きる決意をしたエリンの元に、大量の闘蛇の軍勢が激しい地響きとともに迫ってくる。雲の切れ目から姿を出した太陽がソヨンへと変わり、第7話「母の指笛」でソヨンが大量の闘蛇に食い殺された処刑の光景が浮かび上がってくる。水中を泳ぐ闘蛇に囲まれてソヨンが食い殺されたように、エリンもこの広漠とした荒野で闘蛇に囲まれて食い殺されてしまうイメージ映像が映し出される。大量の闘蛇たちが抽象的に描かれ、闘蛇は渦を巻く螺旋のイメージへと変貌する。ここでの螺旋の回転運動は「死」のイメージを産出し、増大させる。


 螺旋の回転運動が最高潮に達した時、螺旋の運動から別のイメージ映像に切り替わり、まるで龍のような映像が捉えられる。この時点では、この抽象化されたものは判別できない(闘蛇なのかもしれないし、別のものかもしれない)。その抽象化された生き物が襲いかかり、エリンの体が大きな牙に挟まれる。

 その牙は、闘蛇ではなく、王獣・リランであった。

 エリンが牙に挟まれる刹那、時間は停滞し、リランの全体像が描写される。ソヨンが闘蛇たちに囲まれて食い殺された光景が繰り返されることはなかったのだ。ここで感動的なのは、リランがエリンのために音無し笛とは関係無しに降り立ったこともあるが、Aパートで闘蛇を引き千切って食い殺し、第43話でエリンの左手の指を食い千切り、生き物から奪い続けてきたリランの「牙」が何ものも奪う事なく、エリンの体を包み込むかのように機能し、命を奪い続けてきた「牙」がエリンの命を奪わずに逆に命を救っているという出来事が感動的なのだ。命を奪う「牙」がエリンの命を救うことになる。



 リランの瞳にエリンが写し出され、眩い光が差し込む。入射光の描写は、単体では凡庸だが、画面の連続性によって観る者の心を揺さぶる。ここで後期ED曲である松たか子さんの「きっと伝えて」が流れる。


 リランはエリンを咥えたまま天空へと飛翔する。この時、リランは回転運動をしながら空へと上昇する。死のイメージを産出し、増大させた螺旋の回転運動が、今度はエリンの生命を増幅させるかのように機能する。ここにおいての回転運動は、死と生をあらわす両義的な役割を果たし、生と死のイメージを産出し増幅させる装置として機能する。


 エリンを咥えたリランは、白い雲海の上を飛行し、太陽の輝きに照らされ、その姿は白く発光しているかのように輝く。白く光り輝く太陽と白の雲海と白く輝くリランの姿が、白で統一され、白で構成された風景は、先ほどの荒野と灰色の曇天で構成された灰色の風景とは対照的であり(灰色の荒野は白の雲海へと変貌する)、観る者を灰色の鬱屈した風景から解き放ち、白色からくる清らかさと解放感を与え、観る者に感銘を与える。また、ここでのエリンを咥えている描写も感銘を与えるだろう。前述した通り、Aパートで闘蛇の体に食い込み、血を流させ死に至らしめたリランの「牙」が、エリンの体に食い込み血を流させ死に至らしめることなく、エリンの体を優しく包み込むかのようにリランの「牙」が機能しているからだ。



 リランはエリンに音無し笛で命令されたから、戻ってきたわけでは決してない(そんな描写は一切ない)。誰にも命令されることなく、音無し笛で縛られることなく、エリンの「行きなさい」という命令に逆らい、自らの意志でエリンの元へと舞い降り、エリンを闘蛇の牙から救った。第43話において音無し笛で従属させる獣の医術師と獣の関係になったにも関わらず、エリンに音無し笛で従属させられていたにも関わらず、リランはエリンを助けた。それはセィミヤが言ったように、エリンとリランは親子のような深い愛情で繋がれているのだろう(親子ような深い愛情ではなく、別の考え方もあると思うが)。大空を飛翔している時、音無し笛はすでに画面上から排除されており、音無し笛による従属の関係は消え去っていると考えることが可能だろう(第50話の映像だけを見る限り)。この後、音無し笛は一切登場しないことがそれを雄弁に物語っている(ラストで年を重ねたエリンが捉えられるが、その胸には音無し笛は存在しない。この事はあとで詳しく後述する)。


 第50話では、リランが飛び立つ上昇運動と地面へと降りる落下運動が作り出す縦の垂直運動と大空を飛翔するリランの横の水平運動が豊かな運動性を生成しており、縦横無尽の運動性が画面上の拡がりを作り出す。リランが持つ自由というイメージを増幅させる。


 大空を飛翔するリランとエリンの姿を見て、シュナンとセィミヤは互いに絆を結ぼうと決意する。人間の身体と獣の身体が一体となって自由に大空を飛びまわる光景は、見る者にきまって変化を与える。それは、キリクがエリンとリランが一緒に飛翔する姿を目撃したときのように、シュナンとセィミヤの心理に変化を及ぼすことになる。青空に溶け込む白く輝く王獣は見るものを全てを圧倒し、他者との融和を喚起する。シュナンとセィミヤの会話の間に、地面に降り積もった雪の間からあらわれた木々や花々たちの姿が挿入され、ニ対の花々と芽が二人の融和をあらわしているかのようにみえる。




 エリンとリラン、シュナンとセィミヤの盛り上がりの影に隠れてすっかり忘れ去られていたダミヤがやっと活躍をする(?)。第49話「決戦」でエリンが落とした短剣を拾い、シュナンとセィミヤに迫るが、イアルに一瞬にして切り倒されてしまう(っていうか何で誰もいなくなってるんだろう。一人ぐらいいてもいいのに。前回そんな描写あったけか。あとスローモーションで描かれる丁寧さ)。

 エリンの短剣は自分の命を絶つものだった。自分の命を絶つ役割を果たす短剣なのだから、ダミヤがその短剣を持って自分の命が絶たれるという出来事は、ある種の必然だったのかもしれない。もしくは皮肉か。どうみたってダミヤには勝ち目がなかっただろう。イアル強いし。短剣を持ったとはいえ、ダミヤの戦闘力じゃ、丸腰のシュナンにさえ勝てない気もするが。そもそも短剣を持って一体何をしようとしていたのか。シュナンもしくはセィミヤを殺した所で何が変わるわけもなかろうに。ホント、ご乱心だったのだろう。あと、ダミヤとヌガンは繋がっていたのだろうか。そもそもヌガンはあれから一体どうしたのか。シュナンとセィミヤの結婚式は描かれるが、ヌガンの描写が抜け落ちている。姿を消したままというのは、ちょっと不気味。余計な描写を省いたとも考えられるが。





 時は流れ、カザルム王獣保護場でリランとエクの子供・アルの傍らで竪琴をかろやかに奏でる黒髪の一人の少年の姿が捉えられる。その胸にはソヨンの腕輪がかけられていた。「ジェシ」とその少年を呼ぶ声が聞こえ、自分を呼ぶ声に少年は「お母さん」と言葉を返し、母親のもとへと駆け寄る。ジェシが駆け寄って抱きついた母親の左手には手袋がはめられていた。カメラがパンアップすると、ソヨンのように後ろで緑の髪を縛ったエリンの姿が映し出される。青い花々に囲まれエリンが息子のジェシを抱きしめる姿は、ソヨンと幼き頃のエリンを想起させる。ここでスキマスイッチの「雫」が流れる。ここで注目したいのは、エリンの胸には音無し笛がないことだ。このことから、獣たちは音無し笛から解放され、ジェシが竪琴を奏でていることが示すように、音無し笛でなく竪琴によって獣と接していることがわかる(このことはTVアニメ版から読み取れるものであって、原作に関しては関知しない)。この後に映し出される水の中を優雅に泳ぐ闘蛇は、Aパートで見せたような姿はそこにはなく、音無し笛に縛られることなく太陽の光に照らされ、自由に生きているその姿には美しささえただよう。次に映し出される雲の上を颯爽と自由に飛び回る王獣も音無し笛とは無縁である。水の中を泳ぎ、空を駆ける獣たちは、人間によって命を歪められることはない。



最後に


 冒頭で示された音無し笛という鎖から、解放されていくリランとエリンの姿が印象的だった(完全には解放されていないだろうが)。全50話、丸一年かけて描いたエリンという一人の少女の物語。これを観ていた子供たち(エリンと同じく10歳の子とか)がどういう反応しているのか、気になる所。


 エリンを演じる星井七瀬さんの声を最初に聞いたときは、「うーん」という感じだったが、回を重ねるにつれ、星井七瀬さんの声がエリンの声そのものに思えるようになってきた。エリンはきゃぴきゃぴなんかしている人物ではなく、多弁な人物でもないので、星井七瀬さんの飾り気のない純朴でまっすぐな声質がエリンにはあっていたのだろう。エリンが少女から大人の女性へと成長するにつれ、その年齢にあった演技に変えていかなくてはいけないというのは、プロの声優でも難しかったはず(何回も変えなくてはいけなかった)。その難しい役どころを最後まで演じ切ったことに、素直に素晴らしいことだと私は思う。

 好きなキャラクターであるモックを演じた柳原哲也さんも素晴らしかった。あんな独特な声質はそうそういないでしょう。「だもん」という言い回しはとても印象的。最終回で声を聞けなかったのが、少し残念。ちょっとぐらい登場させてもよかったのになぁなんて思ったり。



 トムラ先輩は一時期エリンに好意を抱いていたのではないかと思っていたのですが、それが進行するわけでもなく、あの思わせぶりはなんだったのだろうとふと感じたり、シロンは一体どうなったのかめちゃくちゃに気になったのだが詳しく描かれなかったり、カイルもその後どうなったとか生きるてるのとか、ナソンはあの後もずっと影から見ていただけなのかとか、色々気になった所でした。ユーヤンの子だくさんはちゃんと描写されるんですけどね。子だくさんはあの安産しそうな体型から必然のことだったのかも。

 それにヌックとモックはどうしているのだろう。ジェシと遊んでいるというか、からかわれている姿が目に浮かびますが。何年経っても変わらない二人なので。そこがいいんですけどね。

 ジェシの父親、エリンの夫を描かなかったのには、何かしらの意図があったんでしょうね。別に描いてもよかったと思うのですが、尺が足らなかったのかな(足りてるだろうと思ったけど。蛇足になるからか)。誰が夫かは説明されなくてもちゃんとわかりますが。

 漠然と理解できる余地を観ているものに残しておくことで、想像の拡がりを促している面もあると思います。



 あと、出来れば続編がみたい所。題材はあるので、制作するのは無理ではないことでしょうし。




 その他の書きたいことは、前の日記で大体書いてしまったので、こちらを参照して下さい。


 スタッフの皆さまお疲れさまでした。



おまけ


 おお、キリク生きていた。彼が生きていたことも感動的だが、医術師として各地を回っていることが何より感動的だ。毒殺や剣によって、人の命を奪い続けた彼の手が、今度は医術師として人の命を救う手へと転換している。第48話「リョザの夜明け」でキリクが見た朝日の風景が彼の心を変えた。もちろん、エリンの力も大きいが。

 とにかく、生きててよかったです。

 それにワダンも登場させるとは。っていうかなぜにワダン?