『中二病でも恋がしたい!』第11話 横構図とカメラの引き


 素晴らしかった。今までの回で1、2を争う出来だ。カット割りもさることながら、レイアウトも良い。


 冒頭から痺れた。


 アバン。色彩が乏しい世界。灰色の世界の中、眼帯を外した立花が登場する。第11話「片翼の堕天使(フォーリン・エンジェル)」は、全編に渡って他の回より少し色彩が違っている(登校時のシーンや駅のホームのシーンなど)。第1話「邂逅の…邪王真眼」での、きらびやか且つ鮮やかな色彩はどこに行ったのだろう。この少し色彩が抑制された世界はなんなのだろう。それは、秋が過ぎて冬(色彩が灰色に近づく季節)に近づいているからだろうか。いや違う、中二病だった立花の世界は、もっと鮮やかな世界だった。もっと輝いていたのだ。しかし、現実を受け入れた立花の世界の色は、この色彩を抑制した、灰色がかった世界なのだ。




 第10話「聖母の…弁当箱(パンドラズ・ボックス)」で立花と勇太が恋人になった際に見た不可視境界線は淡く輝き美しいものだったが、現在の立花にとって自動車の前照灯の光にしか映らない。

第10話


第11話






 第11話は、横構図で捉えられたロングショット又はフルショットが頻出する。Aパート、橋の上での凸守と勇太と立花のシーン、階段前での凸守と丹生谷のシーン。Bパート、駅のホームでの凸守と勇太と立花のシーンなどが挙げられる。これらの横構図は一体何なのだろうか。




 横構図のロングショット又はフルショットの時に映し出されるのは、凸守が多い。彼女が現実に打ちのめされる時、横構図から彼女の姿をカメラは引き気味に捉えるのだ。


 中二病ワールドの奥行きがある縦構図の世界から平坦な横構図の世界へと変わる時、引き気味の横構図は凸守たちがいる『現実』の世界をありありと映し出す。


 第11話において、横構図のロングショット又はフルショットは「現実」というものを強く印象付ける役割を果たす。これが「現実」なのだと彼女たちに叩きつける。
 



 第11話で印象的なのは、持続時間の少し長いショット(長回しとまでは云えない長さ)も挙げられる。Aパート。極東魔術昼寝結社の夏を解散することを告げた立花。強くショックを受けた凸守は立花に詰め寄る。そんな凸守を見かねて、丹生谷は部室から彼女を連れ出す。階段前で暴れる凸守とそれを止める丹生谷を逆光で捉える。約15秒間の1ショット。その持続時間の長さと暴れる凸守の芝居(肌理細やかな芝居だ)から、彼女の立花に対する想いの強さ・必死さが伝わってくる。




 暗影に覆われた逆光の位置から、カメラは移動し、凸守の頭を撫で慰める丹生谷を光で包む。光と影を利用して、丹生谷の凸森に対する優しさを効果的に表すカット割りだ。




 Bパート。夕食(コンビニのおにぎり)を橋の下で食べる勇太と立花。立花は、勇太に「母が父の墓参りに行こう」と云っていることを告げる。立花は勇太に「どう思う?」と尋ねる。父の墓参りに行くということは、父が死んだという現実を完全に受け止めることであり、不可視境界線は存在しないとはっきり宣言するものだ。これに対して、立花はどこかで勇太に「行くな」と云ってもらいたかったのだろう。勇太は、ここで「行くな」と云えば、現実から目を背けることになるし、「行ってこい」と云えば、立花に現実を受け止めろということになる。そんな悩んでも、悩んでも答えがすぐには出ない勇太の心情を約29秒間の1ショットで表す。まったくの静止画にしないために、電車を走らせ、時間経過を強く印象付ける。結局は、勇太は答えが出せず、立花の思うようにしたらどうだという云ってしまう。

 小指を合わせる勇太と立花の行為がどこか悲しい。




 Bパート。立花と勇太は母親を心配させないために、中二病グッズで溢れた部屋の片付けをする。そこで、天蓋付きベッドを外そうとする立花。勇太はそれは片付けなくていいだろと云う。立花は、「片付けていいものとそうじゃないものの違いがわからない」と云う。立花にとって中二病グッズは彼女の身体の一部であり、長く一緒にいたものだということがわかる。第1話で、勇太に対し、中二病グッズを捨てないで欲しい(=信じて欲しい)と云った立花の姿が思い浮かぶ。




 Bパート。駅のホームにおける勇太と凸守のシークエンス。現実を叩きつける勇太とそれに抗う凸守。足で追い詰める勇太と跪いて追い詰められる凸守の見せ方が巧い。足だけ映った勇太の異様な力強さ・非情さ。それに追い詰められ、後ずさりする凸守。普通ならカメラを引いて描写しそうだけど、そうしないことによってインパクトがあるものになっている。




 本作では「川」という舞台が度々登場する(OPでも使用される)。それは、重要なシーンの舞台として選択されることも少なくない。勇太たちの自宅近くにあるということもあるが、それにしてもちょっと登場が多い。「川」という舞台は、不可視境界線を想起させる。三途川が、此岸と彼岸を分ける境目であるように、「川」という舞台は、物事をわける境目、境界線の役割を果たす。この物語のキーワードが「境界線」であるために、「川」が頻出するのだろう。




 今回、くみん先輩が画面上に登場する機会がとても少ない。くみん先輩の不在が皆がバラバラになっていくのを強調しているかのようだ。どどめんの登場が何か気になる。




 コンテ/小川太一、演出/河浪栄作、作画監督/引山佳代。


 小川太一さんのコンテも河浪栄作さんの演出処理も素晴らしい。こういう優秀な方がどんどん出てくる京アニの未来は明るい。