『境界の彼方』 二人が「出会う」ということ

神原秋人と栗山未来の出会い


 最終話を見終えての全体の感想を。


 『境界の彼方』で、印象的だったのは、「出会う」ということだった。誰かと誰かが出会い、出会った者同士が変わっていく。それは、物語としてはよくあることだとは思うけど、この作品では、それがより重要な位置を占めていたように思う。主人公である神原秋人は、半妖という自分の出自に悩み、その半妖の強大な力ゆえに他者を傷つけることさえもあった。栗山未来は、血を操るという特殊な能力から呪われた一族として他者から忌避されてきた。そんな彼と彼女が出会う。出会うことによって、彼と彼女は変わっていき、生きる喜びを知っていくのだ。『境界の彼方』は、人と人が出会うことによって、どのように変わっていくのかという事を描きたかった作品だったと思う。


 「境界」というのは、物事の境のことであり、物と物とが接する所。それは、彼と彼女が接する所、つまり「出会い」というものではないのか。


 僕は、この作品のOPとそのOP曲である「境界の彼方」という曲をすごく気に入っている。「境界の彼方」という曲は、歌詞から察するに秋人と未来のことを歌っているものだろう。

 第10話「白の世界」では、そのOPが秋人の元へと向かう未来を描写したものだとことがわかる。なぜ、OPで秋人と未来の「出会い」を描写したのか。もっとポピュラーなアニメ的なOPでもよかったように思える(今期でいえば、ISとかストライク・ザ・ブラッドとか)。でも、そうしなかった。それは、「出会う」ということが今作品の主題の一つだと指し示してくれている。


 第1話「カーマイン」では、秋人の元へ未来があらわれ、二人は学校の屋上で出会う。第11話では、それとは逆に、秋人が境界の彼方の世界にいる未来の元へと向かい、二人は再会する。出会いの交換が行われるのだ。未来は秋人と出会い、秋人は未来と出会う。そして、最終話、消えた未来と秋人は、また出会う。そう、夕暮れの学校の屋上で、第1話のように、彼と彼女は出会うのだ。最終話で、未来が姿を消して、再び戻ってくるのはお涙頂戴のものではないだろう。未来がいなくなるのは、マクガフィンのようなもので、それ自体に意味はなく、ただただ、秋人と未来を夕暮れの屋上で出会わせるために、用意されたものだと思う。二人の出会いを最後に持ってきたいために。



 秋人と未来が出会って物語は始まり、秋人と未来がまた出会ってこの物語の幕は閉じる。それは、『境界の彼方』という作品が「出会い」の物語だということを示してくれる。




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 上記したけど、僕はこのOPをすごく気に入っている。歌詞と映像のシンクロが気持ち良いのだ。「孤独が頬を濡らす 濡らすけど」という歌詞とともに、水滴がしたたる窓ガラスに反射して映し出される未来の横顔(その水滴によって、まるで彼女が泣いているかのように映し出される)というファーストショットは、背筋がゾクゾクするほどかっこよかった。海と空の境界線が映し出されるタイトルバックもこれまたかっこよい。




 ロングショットや素早いカット割りでの登場人物紹介も抑制が効いていて良い(アップをやたら使わないところが)。度々登場する白い花と赤い花。赤い花は、未来を示し、白い花は秋人を指し示しているのだろう。暗いトンネル(=孤独の闇)の先には、夜明けと白い花が待っている。そう希望(=秋人)が待っているのだ。


 

 第10話「白い世界」、未来は枯れ果てたひまわり畑で秋人にキスをしようとする。キスをする瞬間は描写されず、互いに向き合ったひまわりのショットが挿入される。そのひまわりのショットと未来の台詞から彼と彼女はキスにいたらなかったことが示される。

 こういう演出は結構好きだ。コンテ・演出は武本康弘さん。第2話の演出回も素晴らしかった。




 第11話のラスト、未来のもとへ向かうために疾走する秋人と一人でボロボロになりながらも戦い続ける未来のクロスカッティング。しきりに二人は、上昇運動と下降運動を繰り返す。画面での止まることのない運動によって、映像は躍動する。バックで流れるOP曲と相まって、観ている者の多くが興奮する作りになっている。三好一郎さんの手腕は素晴らしい。ここの盛り上げ方が良かった。


 京アニ初の学園異能アクション作品。最終話では、石立太一監督がコンテ・演出を担当し、第1話のようなバトルアクションが繰り広げられ、見ごたえがあった。この作品で、京アニの新たな一面が見えて良かったです。石立太一監督の次回作に期待。