アニメに批評が根付かない理由を8個挙げてみる








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東浩紀さんと山本寛監督が対談したという記事を読んで、ヤマカンってアニメの批評についてめちゃくちゃ意欲があるんだなと再認識した。「ヌーヴェルヴァーグだ」とか、「アニメ批評家は存在しない」とか批評について並々ならぬ強い意志を感じるんだけど、「アニメ批評だ」って声高に言ってる人って多分ヤマカン一人だけなんじゃないかな。「ヤマカンの後に続こう」なんて人は、誰もいやしないように思えるし。それで、なんでアニメに批評が根付かないのか考えてみた。





















アニメについて膨大な知識を持っていて尚且つ批評する力がある人がいないから

多分、こういう人ってほんとに一握りの人物しかいないと思う。批評できる力があっても、アニメに対してそんなに詳しくないとか。アニメについての知識は豊富なんだけど、批評する力がないとか。両方持ち合わせている人物が極端に少ないように思える。だから、アニメ制作のプロであるヤマカンや藤津亮太さんぐらいしかアニメを批評してないんだと思う。











批評を発表する場所、アニメ雑誌がないから

ニュータイプアニメージュ等、発行部数が多いアニメ雑誌は作品をレヴューするものが多く、テクスト重視ではなくヴィジュアル重視ものばっかりで作品批評する場所があんまない。でも、オトナアニメで連載してるヤマカンの「妄想ノオト」やアニメージュオリジナルニュータイプでの藤津亮太さん等、いるにはいるけど、場所が少なすぎる。だからアニメの批評が発展しない。









アニメ業界が批評を好ましく思ってないから


批評の中には、作品を批判しなくてはいけない場合もあると思う。でもそんなことをすれば、いい顔をしない人物たちが必ずあらわれるはず。そういう人達は、公の場で作品を貶めることを許してくれるのかな。まぁ、許さないだろう。でも、ニュータイプの誌上で「ゲド戦記」を散々批判した人がいた(誰とは言わないが)。









アニメ批評でどうやって食っていけばわからないから

発表する場所がなければその道で食っていくことなんて出来ないし、仕事もないから誰も目指さないし、誰もあらわれない。









表現論でアニメを語れる人があんまいないから

思想地図での黒瀬陽平さんやオトナアニメでヤマカンが指摘していたけど、作家論、作画論、物語論で語る人はいても表現論で語る人はあんまいない。表現論も含めて語らないとアニメ批評が完全に成立しないように思う。でも、表現論で語るには映画とアニメにかなり精通してないと無理っぽい。表現論で語れる人があんまいないのもアニメ批評が発展しない一因なのかも。








アニメ批評を求めてる人が少ないから

アニメファンの中にどれくらい批評を求めているか人がいるか? かなり少ないと思う。大多数の人が求めているのなら、ムーブメントになるんだけど。読みたいと思う人が極端に少ないように思える。ネットには結構求めている人がいるんだと思うけど、世間の人達はどうなのだろう。









っていうか多くの人は興味ないから


まぁ、多分アニメに批評が根付かない一番の理由はこれかな。そこまで真剣にアニメを見ていたり、考えたりする人ってアニメファンの中でも少数のように思える。ヤマカンがいくら季報「唯物論研究」とかでアニメに関して言ったって、ほとんどの人は見向きもしなかったんじゃないのかな。映像にみんな興味がある訳だし、文章にはさほど興味がないのかな。










っていうか誰にもアニメの批評の仕方がわかんないから

誰もわかってないというか、確立してないというか。作画や声優やアニメ独自の演出等、特殊な部分がありすぎてどうやって手をつけたらいいのかわかんないから、未だに根付かない?















思いついたことをパッと挙げてみたけど、他にもいろいろありそうだし、絶対的な理由は不明な感じ。




とにかく次号の「アニメージュ・オリジナル」を買ってみようと思う。








参考図書



NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

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オトナアニメ Vol.10 (洋泉社MOOK)

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アニメ「評論家」宣言

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