「隠の王」







面白さというものは、他人に伝えづらい。






今期僕は、「隠の王」が面白いと言ってきたのですが、友人に「どこが、どういう風に面白いのか説明しろよ」と言われた途端、口ごもり上手く説明出来なくなってしまいました。



そこで僕は考え込みとりあえず、「声優陣が良い」、「特に藤村歩さんが良い」、「清水雷鳴というキャラがかわいい」という風に答えます。でもこれは、「声優の魅力」や「キャラの設定」等の記号的な理由をこじつけ、語ることによって面白さを伝えた気になっているのに過ぎないのではないかと感じています。実際に、声優やキャラの設定も面白さの一因だと思うのですが、面白さの本質はそこではなく別のどこかにあると僕は思っているのですが、一体それが何なのか?、「面白い」と言っている自分でさえわかっていない状態なのです。





隠の王」とは逆に、人に面白さを明確に伝えられる作品は、数々あります。今期でいえば、「マクロスF」、「コードギアス 反逆のルルーシュR2」が該当するでしょう。あの作品群は、とても面白さを他人に伝えやすい。例えば、「作画がすごい」、「ストーリー展開が良い」、「キャラが魅力的」等考え込まなくても、簡単に面白さがが浮かび、簡単に面白さが人に伝わります。それとは逆に、今期僕が毎週楽しみに見ている、「あまつき」、「紅」、「しゅごキャラ!」、「ドルアーガの塔」は「隠の王」と同様に面白さを上手く伝えられない作品であったりします。もし、「紅」の面白さを伝えようとしたら、プレスコやカメラワークなどの記号的な答えしか出てきません。作品の面白さを語ろうとすればするほど、自分が感じている面白さからは遠ざかってしまいます。また作品の構造を分析、解説するのも自分の思っている本質的な面白さを伝える事とは別なような気がします。



この『伝えられる面白さ』と『伝えられない面白さ』とは、一体何なのだろうかと、とてももどかしい気持ちになってしまいます。




そこで考えてみたところ、『伝えられる面白さ』=『他人と共有できる面白さ』、『伝えられない面白さ』=『他人と共有できない面白さ』ではないのかと考えてみました。




マクロスF」、「コードギアス 反逆のルルーシュR2」等の面白さが簡単出てきて、簡単に他人に伝わるのは、『他人と共有できる面白さ』が多いからなのではないでしょうか。作画やキャラ、ストーリーなどの記号的な面白さは自分だけが面白いと感じられるのではなく、他人も面白いと感じられる普遍的な力があり、だからこそ他人と面白さを共有でき、面白さが伝わります。





隠の王」、「あまつき」、等の作品の、『他人と共有できない面白さ』は、『他人と共有できる面白さ』と真逆であり、他人に上手く伝えられない、「面白い」と言っている自分でさえ面白さがわかっていない状態、これは、個人の性癖にとても近いものがあります。ここでいう性癖は、性的なものではなく、個人のパーソナリティに基づいた嗜好や性格のことを指します。それによって、『他人と共有できない面白さ』を個人の嗜好と位置づけると、「他人に伝わらないのは当たり前、それは個人の問題だからしょうがない」となってしまいます。個人の性癖だから、面白さは伝わらないと自分に言い聞かせ、納得することもできます。しかしそれでは、『他人と共有できない面白さ』を人に伝えるのは無理と結論付けてしまい、本当にそれでいいのかと僕は思ってしまいます。




アニメ作品を、アニメ好きでもなく、まったく知らないひとに伝えるとき昔からオタクの人たちは、どうやって『他人と共有できない面白さ』を伝えてきたのかすごく気になります。『他人と共有できない面白さ』を伝えるには、声高に「面白い」と単純に叫ぶしか手段はないのでしょうか。




「個人的に好きな作品」は、自分ひとりで楽しんで、他人には伝えられないものなのでしょうか。事実、アニメ版「隠の王」を面白いと感じているひとは、少なくでしょう。それは、『他人と共有できる面白さ』が圧倒的に少ないからだと思います。『他人と共有できる面白さ』が多ければ、名作、傑作になり、面白い作品となります。でもそれが、自分にとって一番面白い作品になるのかは別だと思います。『他人と共有できる面白さ』よりも『他人と共有できない面白さの方が自分自身、個人にとって重要な気がします。




隠の王 (1) Gファンタジーコミックス

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隠の王 2 (Gファンタジーコミックス)

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隠の王 3 (Gファンタジーコミックス)

隠の王 3 (Gファンタジーコミックス)

隠の王 4 (Gファンタジーコミックス)

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