テレビアニメ大量消費時代の「キャラ」至上主義



テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ




2005年に発行された伊藤剛さんの「テヅカ・イズ・デッド」を今更ながら読みました。三年も経って、読むとは本当に情けない。




キャラ/キャラクター」概念とかは、聞いたことがあったのだけど、どうゆうものかわかってなかった。

読んでみてこういうものだったのかと改めて納得した。




キャラ/キャラクター」とは何かというと、


「キャラ」とは多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの


「キャラクター」とは「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

ということらしい。



それで一番気になったのが『「NANA」は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている』という所だった。


まず「キャラ」が弱いとはどういうことかというと、「キャラ」の強度が弱いということになる。では「キャラ」の強度とは何かというと


「キャラ」であることの強度とは、テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に「存在感」を持つことと規定できる。だからそれは、作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない。その程度には「キャラクター」としての強度=立つことと、「キャラ」としての強度とは、独立の事象なのである。ここでキャラに萌えるという受容を思い起こすべきだろう。「キャラ」の強度とは、「萌え」を支えるものある。逆にいえば何であれ「キャラ」の強度に反応することを、広義の「萌え」と定義しなおすことも可能だろう。


それに加えて

「キャラ」の強度とは、テクストからの自立性の強さというだけではなく、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さであると考えることができる。この「横断性」こそが重要な点なのである。

この二つ引用した内容が「キャラ」の強度ということになる。

この「キャラ」の強度を自分なりに勝手に解釈すると、「萌える」ことが強くできて、二次創作もバンバン作られるのが「キャラ」が強い。「萌える」ことがあんまりできなくて、二次創作が少ししか作られないのが「キャラ」が弱いということになる。あとこの「キャラ」の強度とは、主にオタクが使用するものらしい。




それで、なぜ僕が『「NANA」は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている』が気になったかというと、この「NANA」の部分にテレビアニメの「true tears」を入れ替えてみると、





『「true tears」は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている』という風になる。





これは、「true tears」の本質を捉えているものだと思う。




true tears」の登場人物達は、「キャラクター」がものすごく立っている、リアルに描かれた眞一郎や比呂美、乃絵、愛子達はあたかも現実に存在しているかのように思わせるほどの「実在感」があり、それが「キャラクター」を立たせていた。





しかし「キャラ」は弱い。「true tears」の登場人物たちには、「萌える」ことがあまりできなく、二次創作も少ししか作られない。




「キャラ」が弱くても別にいいじゃないかと思うかもしれないけど、テレビアニメにとっては「キャラ」が弱いが、死活問題になってると思う。特に2005年前後から始まったテレビアニメ大量消費時代には非常に重要な要素だと思える。




2005年前後からテレビアニメが今までにないほど大量に生産され、次々と大量に消費されていく。2006年にはテレビアニメの放送本数が最高潮に達していた。この大量消費時代は、アニメ作品が放送中は話題になり盛り上がるのだが、ひとたび放送が終了したらアニオタ達にころっと忘れ去られてしまう。なぜならもう既に次のクールのアニメ作品が大量に待っており、今度はそっちを見なければならないからだ。この異常なまでの消費スピードの中、テレビアニメがヒットするには、「キャラ」が強くなくてはいけないと思う。それを代表しているのが「ハルヒ」であり、「らきすた」であり、「コードギアス」なのであろう。テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に「存在感」を持つことができ、複数のテクストを横断し、個別の二次創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる「同一性存在感」の強さも持ち合わせている「ハルヒ」や「らきすた」の「キャラ」は放送終了後もMADや同人誌などで消費され続けている。「キャラ」を強くして、消費され続けるようにしなくては、オタク達にすぐに忘れ去られてしまう。だからこそ放送終了後も「ハルヒ」や「らきすた」はヒットし続けたのだろう。





このテレビアニメ大量消費時代の「キャラ」の強度は、オタクにとって「キャラクター」が立つことよりも何十倍も重要なのだろう。





テレビアニメ大量消費時代は、オタクにとって「キャラ」至上主義の時代なのではないのかと思った。




true tears」は、そんな「キャラ」至上主義と真逆の道を取り、「キャラクター」を立つことを優先させた結果、放送中はあんなに話題になって、盛り上がったのに、放送が終了した途端にオタク達の記憶から忘れ去られてしまっている。放送終了後の熱の冷めっぷりは、オタクが「キャラクター」よりも「キャラ」を優先しているのが如実にあらわれていると思った。




どんなに優れた作品であっても、キャラが強くなくてはオタクに受けいれられない、という今の時代は果たして良いものなのか悪いものなのか。「テヅカ・イズ・デッド」の「キャラ/キャラクター」論を読んでそう感じた。