CANAAN 第1話「洪色魔都」が面白い



 tvkでは火曜日からなんですが、どうしても我慢できずに友達が録画していたものを一緒に視聴しました。待てばよかったのですが、今期一番期待してたのでちょっとどうしても・・・。っていうか、tvkちょっと放送遅いよ! まぁ、放送されるだけありがたいことなんですが・・。

 P.A.WORKSの待ちに待った二作目、そして安藤真裕監督、とくれば期待せずにはいられない。楽しんで視聴しました。にしても、安藤真裕監督のアクションはすごい。それにP.A.WORKSのスタッフも。OPでの銃を使った近接戦闘かっこいい。


 それで気になった部分を色々と。


OP


 OP開始約1分5秒辺りが凄くかっこいい。作画もいいんですが、何よりカット割りがいい。4つのカットが流れるように繋がれている。カナンの移動とともにカットが繋がれていて、繋ぎ目がよくわからんほど自然に繋がれている(マッチ・カット)。本当にスムーズ。カメラワークもかっけえ。OP曲「mind as Judgment」のサビの高揚感もあいまって、テンションがあがります。

 何回見ても飽きません。




大沢マリアの台詞


 大沢マリアが飛行機内で、

「わたし、この世界には誰もが見えてないものがいっぱいあると思うんです」

 と話した後に、マリアが窓側に視線を向けると、フォーカスインして俯瞰から被りものをした男たちを捉えたカットに切り替わります。

 マリアの

「ううん、見ようと思えば本当は見えないものなんてないのに、わざと目を閉ざしている。この目でそれを見てしまうのは、痛すぎるし、つらすぎるから。だから、閉ざしている」

 の台詞と同時に、被りものをした男たちが映し出されます。そして、ぶつかった男に被りものを取られて、男は「目を開けて見てしまう」。苦しもがく様がまるで踊っているかのような男とそれを見て何も気づかず踊る祭りの人たち。

 そこに

「写真は誰かの目を借りることが出来ると思うんです。自分の目を閉ざしたままでも、誰かの目を借りて・・」

 とマリアの台詞が流れる。ここでは、マリアの台詞が被りものの男と祭りの人たちの両方にかかっていて、実際に目で見てしまうと痛すぎてつらいから目を閉じている被りものの男と、本当に見ようとすれば苦しがっていることがわかるのにそれを見ようとせずに目を閉じている祭りの人たち。二重にかかっているマリアの言葉が、被りものの男と祭りの人たちの事を明瞭に説明しているのは秀逸だと思った。

 このマリアの台詞が今回の話のキーポイントになっていて、また後々まで意味を持っている重要な台詞じゃないのかな。




「祭り」と「死」


 祭りの最中、人がバンバン死んでいくわけなんですが、なぜか誰も気づかないし、驚かない。

 死体を見ても何らリアクションがない子供たち。



 気づかないというよりは、御法川実の言うとおり「わざと目を逸らしている」っていうのが適切なのかな? でも、なんか違和感を感じるんですよね。前述しましたが、大沢マリアが飛行機内で言ってる通り、痛いから、つらいから、見たくないから、祭りの人たちは目を逸らしているのは、本当にそうのなのか? とどうも疑問に思ってしまう。「祭り」という強い命のエネルギーにやられてしまって、死が見えてしまってないのではないだろうか、なんて僕は思ったりしました。

 大沢マリアが祭りに関して、「すごい、すごい、すごーい。エネルギーがすごい、いのちの。感じる」と興奮気味に言っています。祭りは生命そのもので、命のエネルギーが溢れている。その溢れる命の中にいると、すぐそばにある死を見逃してしまう、目の前の死からわざと目を逸らしてしまう。目の前の死に対して無邪気な子供たちが多く登場するのも象徴的なんじゃないのかな。子供は成長する生命のエネルギーに溢れているもの。強すぎる命のまえでは、死もかすんでしまう。

 マリアも祭り=強い命のエネルギーにさらされて、死を一瞬認識できないんですが、カメラ(誰かの目)を介して、死を認識できる。御法川も血を流して傷つき、カメラを介することにより、見ることができている。


 今作品でカメラっていうのは、目を逸らしてしまうものを、見させるようにする装置(第三の目)なんでしょうか。飛行機内でマリアが言っていましたし。

 カナンに至っては、カメラを介さずに認識できるわけで。

 冒頭のビルの屋上から狙撃練習している所は、全てを見渡している、全てが見えている、全てを認識できるカナンを端的に表していたものなのではないのかな。






おまけ


「チャイナ気分でハイテンション!」って岡田麿里さんが作詞なのか。この曲のタイトルちょっとすごいよな・・・。