「雑記、思い付いたこと」

キミキス」での光一や「true tears」の眞一郎の優柔不断ぶりを見ていると、おもわず「誠死ね」と思ってしまう。これは、主人公が一人のヒロインだけじゃなく他のヒロインにまで手をだしたり、一人のヒロインに決められないヘタレっぷり等のドイヒーな行動に嫌悪感を抱き、「SchoolDays」の主人公伊藤誠に見立てて「誠死ね」と言ってしまう現象なのだが。

多くの人は「なんなんだこの主人公は」とむかついてしまうのだが、実際この行動を自分自身知らぬまにやっている人は多いんじゃないのかなと思う。現実世界でやっているのではなくて、虚構の美少女ゲームの世界でやっているんじゃないのかな。次から次へと女の子をとっかえひっかえしたり、いろんな女の子に手を出したりするのをプレイヤーとして疑似体験して、楽しんでいる。女の子を多数所有する願望を誰しも潜在的に持ち合わせているんじゃないだろうか。

それなのに、そういう節操のない主人公を見ると「誠死ね」と否定する。そこには社会の倫理観や「そんなことしてはいけないよ」という自分の良心で否定しているのだと多くの人は思っていると思うのだが、これは自分自身への否定ではないのかな。自分が持つ多数の女の子を所有してたいという暴力的な一面を必死に「誠死ね」で否定する、自分にそんな一面があるのを認めたくないし隠したいから。そしてその主人公が女の子に惨殺されると、自分の潜在的にある暴力的な一面を排除されたかのように感じ、快感を覚えたりもする。伊藤誠なんてのは、まさに自分自身が潜在的に持つ暴力的な性の一面の化身であり、それを否定したいから、「誠死ね」が生まれたんではないのかな。


誠死ね」は、物語の主人公に対してではなく、自分の暴力的な性の一面に対して死ねと言っているんだと思う。