オタクはすでに死んでいるへの疑問 第三世代と第四世代の狭間からみて。


オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)



何故岡田さんがあそこまでバッシングされているのか僕にはよくわからない。僕自身、前にもこの本の感想を書いたけど、そこまで激怒する内容じゃなかったような気がする。

あの本に書かれていた内容は、どうみたって岡田さんのエゴ以外の何ものでもない、特にあとがきとか。




「俺たち、第一世代のオタク貴族が必死になってオタクという概念を広め、開拓してきた。たゆまぬオタクとしての努力をし続け、オタクとしての自己を暗中模索しながらも確立してきた、偉大な世代なのだ。M君事件による猛烈なオタクバッシングにも耐えて来たんだ。それなのに今の第三世代のオタク共は一体なんだ。萌えというわけのわからない概念を持ち出してきて、我らオタク貴族を排除しよって、誠にけしからん。お前ら簡単にオタクと名乗るんじゃねぇ!! オタクと名乗っていいのは、第一世代、第二世代だけなんだよ!! よ〜しオタクは死んだと言ってお前らがオタクとは名乗れなくしてやる。もし名乗りたかったら、第一世代を敬い、見習うんだ。わかったな。」



みたいな岡田斗司夫さんの虚しい虚しい魂の叫びがあの本には、詰め込まれていて(特にあとがき)、僕には「岡田さん、もうわかったから、そんなに必死にならないでくれ」と侘しい気持ちになった。

まるで、戦後必死になって日本を再建してきたご老人が、今の豊か過ぎる日本の若者を見て、「今時の若者ときたら、」と憤慨しているような虚しさを感じた。

岡田さんはどうみたって時代についていけてない老人と一緒だ。

それなのにどうして岡田さんを叩くのだろう?ただの老人の戯言なのに。

と僕は思ってしまう。






多分この感覚の差は、岡田さんを叩いている世代と僕がいる実質第四世代の間にジェネレーションギャップが生じているからではないのかと思った。


この岡田さん反発している世代は、「第二世代と第三世代の狭間の人々」と「第三世代の人々」が反発しているのだと思う。

もろに岡田さんが批判しているのは第三世代の人々の「萌え」についてで、自分たちのアイデンティティーや概念「萌え」を否定されたら誰だって怒り狂い、岡田批判をすると思う。

ここで、まだ第三世代には「萌え」というオタクとしてのアイデンティティーが存在していると思う。






でも、第四世代にはそのアイデンティティーや概念さえ存在しないのではないのだろうか。

そこにあるのはただの「好き」という軽い感情、ファンレベルの感情しか持ちえていないんだと思う。

単純にコンテンツを楽しみ、消費して、仲間たちとコミュニケーションするぬるオタを超えたファンの集団。それが第四世代なのではないのか。


第一世代、第二世代、第三世代、第四世代へとオタクの遺伝子が徐々に薄まっていき、第四世代には完全に消滅してしまった。第四世代の育ってきた環境があまりにも情報に溢れ、豊か過ぎる環境だったので、オタクになる必要性がなかった。


だから、僕がこの岡田さん叩きを何故やるのか理解できなかったのかは、第四世代の僕が、オタクとしてのアイデンティティーが薄まり、概念も存在せず、ただのマニア、ファンレベルになってしまい、オタクとしての自己が明確に存在し得なかったから、岡田さん叩きがピンとこなかったんだなと思う。




自分のことをオタクだと認識していたが、オタクではもはや無いのかもしれない。