オタクゾンビ

大澤真幸著作『不可能性の時代』 第三章「オタクという謎」 3−社会性と非社会性−に書かれているオタクの対人関係についての事が少し気になった。


そこで書かれている内容は、オタクは他者との接触を回避する傾向があるが、一方では同人誌を作ったり、コミケ等のイベントに参加したり、明らかに他者を求めている欲求がある。こうした二重性の解釈として、オタクが交際を求める他者とは「趣味を共有するオタク仲間」であり、類似性を本質とする他者ではないのか。他者の他者たる所以は差異性であるが、オタクは他者の差異性から撤退し、他者性を抜き取った他者を欲求する。オタクは自分との差異を際立たせる他者を回避し、自分と類似する他者を求める。このように考えれば、オタクが他者から撤退しつつ、他者を志向するという矛盾は解消される・・・らしい。




ちょっと前に話題になった「オタが非オタに」の記事はこの事に当てはまるように思えた。オタクが求めるているのは自分と違う他者ではなく、自分と似ている他者。だから、非オタをオタクにさせて差異性を無くした他者に仕立てあげる。何故なら、オタクは自分に類似してる他者を求めているから。


なんかそう考えると、オタクはバイオやホラー映画に出てくるゾンビに似ているのかもしれない。ゾンビは人間を噛んで自分と同じゾンビにしようとする。オタクも非オタに作品を薦めてオタクにしようとする。そう考えると両者はちょっと似ている? 非オタをオタにさせる人ってオタクゾンビなのかも。




でも、今時のオタクは自分と差異がある他者とか関係なしに人と接している様な気がするな。自分の周りでも差異とか関係なしに人付き合いしてる人が殆どだし。この本に書かれているオタクって少し前のオタク像なんじゃないのかな。そう感じるのは僕が岡田斗司夫さんが言う第四世代とかに属してる比較的若い人間だからなのか。まぁ、この本はオタクについて書かれた本じゃないから、そこまで詳しくは言及されてないから何とも言えないけど。




あと同じ章に書かれている、オタク史にとってエヴァの最終回は第二次世界大戦終結並の意味を持っているのなら、ハルヒは9・11の同時多発テロ並の意味を持っているのだろうか?