東浩紀×山本寛対談〜アニメと批評の共犯関係〜「アニメージュ オリジナルvol.2」アニメ批評関連簡易まとめ版




アニメージュオリジナル animage ORIGINAL vol.2 (08.DEC (ロマンアルバム)

アニメージュオリジナル animage ORIGINAL vol.2 (08.DEC (ロマンアルバム)






アニメ批評はなぜ必要なのか?

(中略)


東  ですから、山本さんには以前からお会いしたいと思っていました。で、今回対談をするにあたって改めていろいろな資料を拝見したのですが、山本さんはあちこちで「アニメ批評は必要だ」って発言していますよね。今日はなぜそう思うのかを聞きたいと思ってきました。



山本  それはそれこそ、さきほど言ったような東さんの影響ですよ。・・・・・責任を押し付けるつもりはありませんが(笑)。



東  (笑)。どうしてそんな問いかけをするのかというと、現実には、僕のような「部外者」は「アニメ批評はやるな」といわれているわけです。  何に対しての部外者はさておき。僕は、あるアニメライターさんに「もうアニメについて書かないでくれ」と面と向かって言われたこともありますし・・・・・・。



山本  ・・・・難儀だなぁ(苦笑)。同じことを別の方から聞きましたよ(笑)。



東   それは結構ずっと引きずっていて、「動物化するポストモダン」という本を出した後にもすごく批判を受けました。その後、ネット時代になったから僕以外のいろんな人が出てくるかというと、そうでもないし。そういう状況から・・・・・これは決してイヤミで言ってるのではなくて・・・・・アニメ業界は、そんなに批評を必要としていないのかって感じているんですよ。




山本  ・・・・・いや、批評を必要としていないのは、いわゆる「アニメ評論家」と呼ばれている人たちでしょう。ぶっちゃけて言いますが、「提灯記事」以外のちょっと辛口であったり、観客やアニメ論壇をあおるような言説は一切認めないという。



東   うーん。それほど単純な話でもなくて・・・・・山本さんがぶっちゃけトークをしてくれているので、さらにぶっちゃけた話で返しますね。結局、批評を最終的に支持してくれるのは誰かってことです。実は「読者が支持してくれればいい」というのは、批評家にとっては結構遠い目標なんです。


たとえば、じゃあ、記事はどこで載せてくれるのか。インタビューで誰かに会いに行くとき、誰がつないでくれるのか。もしくは、批評ってどうしても作り手からすると「何なのこれ?」ってこともありますが、そのとき「まあ、こういう人たちがいるから業界が盛り上がるんだからさ」みたいに、間に入ってくれる人はいるのか・・・・・。批評が盛んで、ある程度維持されている業界にはそういう人がたくさんいるわけですが、アニメ業界にはとても少ない。

 
評論家が育つ土壌にはいくつかの要件がありますが、評論家が解釈を返すとき、作家でも著作権者でも何でもいいのですが、受け取る側がどういう反応をするのかというのも重要な要素になります。この場合「受け取る」というのは、必ずしも内容面で理解したり、納得したりする必要はなくて、形式としてどう返すか。無視でも許容でも反論でもいいんですが、そのとき・・・・・僕の経験的にはアニメと一部のライトノベル作家にはそういう傾向があるんですが、「評論をしないでくれ」と「自分たちは金儲けをやっているだけだから迷惑だ」という明確な拒絶をするタイプの業界があるんです。とりあえず語ってくれてるんだから「ああ、そうですか」と放っておけば済むはずなのに、「じゃまだからやめろ」みたいなね。アニメにはその傾向が強いように思えます。つまり批評に耐性がないんです。そういう意味では、僕は山本さんほど批評を肯定的に捉えてくれる人にはほとんど出会ったことはないので、単純に嬉しく思います。





(中略)


                           「アニメージュオリジナル vol.2」 54P〜55Pより一部抜粋


  

アニメ批評はなぜ困難なのか?

東   今まで話したような業界の構造的な問題とは別に、アニメ批評がやりやすい/やりにくいという問題には、アニメという表現ジャンル自体が持っている難しさもあると思います。アニメは製作工程に大量に人がいるので、「こういう意図でこういう演出がされた」というとき、「それは誰の意図?」という話になる。仮に監督の意図と想定して書いたとすると、業界に詳しいライターさんから「いや、時間がなかったからああなっただけだよ」みたいなことをいわれるわけですが・・・・・・。





山本  単なる揚げ足取りでしょう(苦笑)。





東   いえ、確かに揚げ足取りではあるのですが、もう少し違うレベルの問題もはらんでいて・・・・・・。アニメは一見映画によく似ているから、評論をやりたい人は映画理論で語りたいわけですよね。でも実は、実写とアニメには決定的な違いがあるので、そこでまず躓く。たとえば、蓮實重彦やその弟子たちがやっている評論のロジックとは、こういうものです。この作品はこういうふうに作り込まれている、しかしここで監督はカメラを通して「出来事」だか「名指されないもの」だか、とにかく不意に出会った   批評とは、その瞬間をつかまえて伝えるものだ、と。これが基本的なテクニックで、別にこれは蓮實さんに限らず、20世紀後半以降、美術批評でも文芸批評でも、基本的にどのジャンルにおいても評論はこのロジックが優勢です。作り手が自分の計画を超えた何ものかに出会った瞬間を捉えて、読者に伝えるのが批評家の役目だと。


 でも、このロジックでアニメを批評するのは難しい。なぜなら、全ては絵コンテに描かれていて、不意には何も起きないから。アニメでは、作家が何かに不意に出会うという瞬間をつかまえられない。(実写)映画は現実が「外部」にあって、それを映像として切り取るわけです。ところが、アニメにはそういう「外部」がないんですよ。







山本  なるほど。押井さんがかつて仰っていた「アニメに偶然性はない。何かが偶然に映ったという瞬間は絶対にありえない」という考え方ですね。


 ですが、現場にいる実感としては・・・・・みんな、そこまで意図して作ってないんですよ(笑)。確かに「偶然に映ったもの」は存在しないのですが、「偶然描いたもの」は存在するんです。それこそ背景マンがいたずらに描いた小ネタから、アニメーターさんたちが何となく描いた絵が思ってもみなかった意味で受け取られたり、意図せず何かに似てしまったり・・・・・もちろん狙って描く場合もありますけど(笑)。そういう「意図しない図像」が生まれる瞬間はアニメにもあるし、演出もそれを必ずしも全部追えるわけではないので、後から指摘されて「あれ、そうだったっけ?」と気づく瞬間もあります。たとえば原画に限っても、アニメーターだったらそんなに何から何まで意図して、完璧に理論立てて描いてるわけではない。しかも、現状では「レイアウト」「第一原画」「第二原画」と3つのセクションに分かれることもあるので、そうなると誰のどんな意図が反映されているのかなんてわかんないんですよ。演出にしたって絵コンテと演出が別人の場合もある。僕自身、コンテを描かずに演出だけ担当することもありますが、その場合、コンテの意図と自分の意図を擦り合わせる瞬間はあります。この瞬間にも「この話数は誰のもの?」って分からなくなる。その前段階にシナリオもあるし、原画の後に動画もあって、仕上げもあって、撮影もあって、その後にも音響がある。声優さんがすごいアドリブをかまして、僕らが大笑いすることだってあるわけで(笑)そうなるともう、誰の意図がどこに反映されたのかなんて、ぶっちゃけ誰にもわからない事態に陥るんですね。



 いろんな人の思いつきを並べて集約したものが一本のフィルムになっている。誰のものでもあるし、誰のものでもないのがアニメかなと思うし、それがアニメを作るおもしろさでもあります。もちろん、それを最終的に「これは全部私の意図です」と言い切る責任は監督にあると思いますが、その盲点を突いて「作者の意図を超えたところ」で論じるのは可能だと思いますよ。




                 「アニメージュオリジナル vol.2」 55P〜56Pより一部抜粋