青い文学シリーズ 第1話「人間失格 鎌倉心中」が面白い

走る・逃避


 Aパート冒頭、恒子は夫の面会を終え、走りながら急いで店へと出勤する。


 主人公・葉蔵は、特高の小菅に追われ、逃げ走っている。


 恒子は店へと出勤するために走るのだが、その髪を振り乱しあまりにも必死に走る姿は「何か」に追われ、それから逃げ惑っているようにさえ見える。葉蔵も小菅から逃げているのだが、その逃げている様は小菅に追われているというより、言い知れぬ「何か」から逃げているように見える(葉蔵が逃げている最中は彼の過去の映像が挿入されることから、単純に小菅から逃げているというわけではなさそうだ。)。この二人にとって、走るという身体運動は逃避することと同義なのではないのだろうか。この「何か」から追われ、逃げる二人が出会うのも偶然ではないのだろう。


 その「何か」というのは、恒子にとって、服役中の夫を待ち続け店で男を相手にして働く毎日というつらい現実であり、現実から逃げだすために恒子は葉蔵と心中をすることになる。葉蔵も「何か」から逃げているのだが、恒子と同じものから逃げているわけではない。葉蔵の「何か」は、つらい現実ではないが、それはまだ明確には定義できない(今後描かれると思うのだが、過去のトラウマあたりなのかな)。




 Aパート冒頭、画面全体ににクモの巣のように張り巡らせられた電線と火花を散らす路面電車のトロリーポール、紅に染まった夕暮れの空は不気味な印象を視聴者に与える。心中に行く際にも描かれる夕暮れの空の色、「赤」は本編中に頻出する色だ。もちろん、他にも頻出する色はあるが、今回は「赤」に着目したい。恒子が海に飛び込んだあと、崖に佇む葉蔵を俯瞰で捉える。海の色は真っ赤に染まっている(葉蔵のPOVショットから海は赤くなっていくので、もちろん現実には海は赤く染まっておらず、これは葉蔵の主観だということがわかる)。赤で蠢く海は、まるで地獄のように映り、圧倒的な死・負のイメージを与える。このことから、第1話において、赤は死のイメージ(負のイメージ)を含んでいるのではないのか。また、死のイメージ・負のイメージを含むと同時に赤は女性のイメージも含んでいると思う。Aパート冒頭で同じく描かれる、店で働く恒子が身に纏う赤のドレス、唇につける紅、これらは女性の象徴とも言えるもので、第1話では赤に女性のイメージも含まれていると思う。赤を身に纏った恒子が、最後に死ぬというのは、「赤」という色彩が暗示していたのかもしれない。





 Aパート、小菅に追われる葉蔵は恒子に匿われる。咄嗟に恒子は自分の真っ赤なドレスのスカートの中に葉蔵を隠し、小菅からの追跡を逃れることとなる。ここでは、葉蔵は単にスカートの中に隠れているという構図なのだが、それとは別な意味・イメージを想起させている。カメラはスカートの中に隠れた葉蔵を捉えるのだが、真っ赤なドレスのスカートの中なので、画面は赤い色で染まっている。隠れる葉蔵の格好は、恒子の股に顔をを埋めるような格好となっており、恒子の子宮に頭から入り込むような姿となっている。その姿はまるで、葉蔵が胎内へと帰る、胎内回帰願望があるようにさえ映る。小菅が葉蔵の捜索をやめ店から出ていく際に、葉蔵は大きく開いた瞳をゆっくりと閉じるのだが、それは小菅の追跡から逃れたことによる安堵感という面もあるのだろうが、このスカートの中、恒子の胎内の中の居心地の良さ、安心感からくるものという一面もあるのではないのか。葉蔵は恒子から「行ったわよ」と言われてもスカートの中に居座り続けるくらい、胎内にいたいのだ。葉蔵にとって、そこは安らげる場所なのだろう。恒子と体を重ねた後、彼女の胸におさまりながら、頭を撫でられ、「落ち着くな」と葉蔵は呟く。その姿は母親に甘える子供のようだ。スカートの中の出来事や母親に甘えるような姿から葉蔵にとって、女性とは母親のように自分を包み込み、安心させてくれる存在。しかし、葉蔵は「この女に殺意を抱いたのは確かです」と言い、恒子を崖から突き落とし、殺すことになる(厳密にいうと葉蔵が突き落としたかは定かではない。その部分は描写されなかった。しかし、突き落としていなくても葉蔵は恒子を突き落として殺したのと同義だと私は考えており、突き落とした=殺したということで話を進ませる)。葉蔵にとって、女性というものは、は安心できる・癒してくれる存在であり、また忌むべき存在という二面性を持っている。本編中で語られているように、葉蔵にとって女性は「特に不思議なもの」と捉えられており、その複雑性がうかがわれる。この複雑というか、歪んだ捉え方が後々まで影響してくるのではないか。



恒子と葉蔵


 前段で、葉蔵にとって女性とは忌むべき存在だと述べたが、なぜ忌むべき存在なのか。それは葉蔵が語るように、「女というのは、どうして物事を自分の都合のいいように解釈するのでしょう。どうして本当の事を見ないとしないのでしょう」というのが原因だろう。葉蔵のトラウマ、憎むべきものとは、心中後に波際に打ち上げられて、そこでフラッシュバックする映像の中にある。自分のことを勝手に解釈し、既定する周りの存在、本当の自分を決して見ようとはしない人間たちに、葉蔵は憎悪を持っているのではないのだろうか。そして、その周りの人間に決め付けられた自分像に従って、自己を作り上げてしまう自分そのものに嫌悪を抱いていたのではないのか。それを端的に表しているのが、幼少期のエピソードだ。幼少期、葉蔵は父親から獅子舞を買い与えられる。しかし、それは父親が勝手に葉蔵が欲しいと解釈して買い与えたものだった。葉蔵も父親を怒らせたくないため、父親の手帳に欲しくもない獅子舞の文字を記す。自分を勝手に作り上げ、それに従ってしまう自分というものがこのエピソードでは表されている。葉蔵が女性を忌むべき存在だと思うのは、物事を都合のいいように解釈する存在だから(それは自分を勝手に解釈する存在でもある)。そして、その象徴のような恒子を心中のように見せかけ崖から突き落として殺すのだ。


 Bパートラスト、海に漂う恒子の屍が映し出される、その漂う恒子の顔は何とも言えぬまるで能面のような顔だ。次に映し出されるのは病室のベッドで横になる葉蔵の顔を捉えたクロースアップショット。葉蔵はゆっくりと不気味に微笑む。ショットの繋ぎ方によって、海に漂う恒子の顔をベッドの上から葉蔵が見ているような印象を視聴者に与える。それは、自分が憎むものを殺したことを喜ぶ笑みなのかもしれない(葉蔵の最後の笑みは、一通りの意味ではなく、いくつもの意味が内包されている笑みなので、一つの捉え方はできないと思うが)。




おまけ


 「こんな話だったけ?」と本棚から引っ張り出して久しぶりに読んだが、結構脚色されているよう(そうでもないか?)。