『ささめきこと』と「見ること」

これは前に書いた日記を元に新たに書いたものです。物語が進むにあたって加筆するかもしれません。


見ること


 『ささめきこと』では見つめるという動作、対象へと送られる視線というものが第1話から視聴者の目を引く。

 まず第1話のアバン、夕日に照らされる放課後の教室で村雨純夏と友人の風間汐は、キスをしている二人の女子生徒を思わず目撃してしまう(これは後に蓮賀朋絵と当麻みやこだと判明する)。驚いた純夏と風間は咄嗟に扉の影に隠れる。そこで、汐の手が純夏の手に触れる。教室でキスをしている女子生徒達を見ている風間。純夏はキスをしている女子生徒を風間と一緒に見ることはなく、女子生徒を見ている風間に対して視線を送る。この時、純夏は風間を盗視するのだ。




 このシーンは、第1話の時間軸上のものではない。第3話の時間軸上の出来事を第1話のアバンにわざわざ持ってきたものなのだ。

 なぜ第1話のアバンという視聴者が一番初めに作品に触れる重要な部分にこの出来事を持ってきたのか。それは、このシーンが「ささめきこと」という物語を象徴する表現に相応しいものであり、画面上における「見ること」を視聴者に印象付けるために配置されたのではないかと思える。



 このシーンが提示されることによって作品世界は一瞬にして説明される。風間汐は男性ではなく女性を好きという女の子であり、彼女が見つめていた放課後の教室でキスをする女子生徒達はいつか自分もああなりたいという憧れ、願望そのものだ。そして、村雨純夏はそんな女の子を好きな風間に密かに好意を抱いていおり、一応風間と一緒で男性ではなく女性が好きという人物である。しかし、純夏は風間と一緒に扉に隠れてキスをしている女子生徒を見てはいない。手が触れた自分の隣にいる風間に対して視線を送るのだ。

 このことからわかるように、純夏は風間のように女の子を好きというわけではなく、「風間汐」自身が好きだということがわかる。それも、自分に注がれている視線に風間は気付くことはなく、「密か」に純夏の視線は風間へと送られているのだ。このシーンの視線の図式は人物関係の図式に変換できることが可能だ。純夏は風間に対して密かな恋心(片想い)を抱いており、それは決して風間に知られることはないという図式。

 「ささめきこと」では、見るということが言葉に発せられない・言葉を抑制された状況で、顕在化されない想いを表す役割を演じている。

 物語で一番初めのこのシーンが波紋となって、「見ること」がその後の物語へと拡がっていく。


 第1話Aパート、図書室で受付をしている汐と図書委員の女性の先輩。風間の横顔を捉えたクロースアップ・ショットと受付をしている先輩が交互に映し出される。ここで風間は、隣にいる先輩を横目で盗視する。その視線は先輩に気付かれないように密かに注がれ、もちろん先輩はその視線に気づくことはない。どこか既視感を覚える視線の図式だ。ここでの視線の図式は今まで示された純夏と風間の視線の図式と相似形である。そして、先輩と汐が会話している様子を盗視する純夏が捉えられる。視線の図式が反復されたのである。先輩に視線を送る風間、風間に視線を送る純夏。アバンで示された「見ること」によって、三人の関係性が示される。見ることによって人物の関係が形成されていく。「見ること」がこの物語を構築する役割を大きく担っていることがわかる。



視線の交錯


 では、この一方的に注がれる視線が注がれる対象の視線と交錯する時、一体何が起きるのか。切り返しショットなどで視線が交錯するとき、それはただ互いを見つめる程度のものではなく互いの瞳の底を見据えるように凝視したとき、見つめあった人物たちの感情は交差し、今まで秘めていた自分の想いを吐露したり、激しく拒絶されたり/したり、互いの気持ちが通じ合ったりと、視線が交錯したあとは人物たちに「変化」が訪れることになる。


 それは一通りの意味作用をもつ変化ではなく、多様な拡がりを持つ豊かな変化。視線が交錯するとき、互いを正面から見つめ合った瞳の中に、登場人物たちは何かを見出すのだ。それにともない人物たちはし、行動する。

 また、視線の交錯は物語が始動する契機としての役割も果たす。


 たとえば、純夏たちのクラスメイト朱宮正樹の場合。

 彼は純夏と同じく一方的に相手に視線を送る一人。では、彼は誰に視線を送っているのかと言うと、純夏に視線を送っている。朱宮は純夏に片想いをしているのだ。その好意は純夏と同じく言葉に発せられることなく、ただ彼女に視線を送ることのみで表せられている。第1話からその純夏に送られる視線は始まり、第2話に至っては全編に渡って純夏を盗視するさまが捉えられる。もちろん、純夏はその視線には気付かない。互いの視線が交差することなく物語は進んでいく。

 だが、朱宮の一方的な視線が廃される時が訪れる。第2話でのクラス委員の連絡会議において、純夏はかわいい女の子でいっぱいのファッション雑誌を読みながら、自分はかわいくないという考え抱き、それを朱宮は悟り「村雨さんはかわいいと思うよ」と感じていたことを思わず口走ってしまう。朱宮は、その発言に驚いた純夏に引っ張られ廊下で二人きりとなる。そこで、朱宮は再度「かわいい」と純夏に告げるのだ。ここでは、俯きながら呟いた「かわいい」という中途半端なものではなく、純夏の瞳をしっかりと見据えてたまま「かわいい」と自分が抱いていた想いをはっきりと告げる。この「かわいい」という言葉は朱宮にとって、もはや秘めていた想いの告白と同等の意味を持つだろう。ここで感動的なのは、朱宮が純夏に対して自分の気持ちを初めて正式に表に出した時、純夏と視線が交錯することだ。相手に知られない想い=一方的な視線はもうそこにはない。朱宮と純夏は切り返しによって、視線を交換して、朱宮の内に秘めていた想いはやっと表明される。また、この視線の交錯によって純夏はかわいい服を着て風間に会うという行動の契機ともなる。視線の交錯によって登場人物は変化する。今後、多く捉えられていた朱宮の盗み見ていた視線はほぼ無くなる。

 この後、公園のベンチで朱宮は「ぼくじゃ駄目ですか」と純夏に交際を求める。純夏と朱宮の視線は再び交錯する。この時、朱宮は風間の事を一途に想い続けている純夏に振られてしまうわけだが。


 視線が交錯するとき、今まで秘めていた自分の想いを吐露する。そして、新たな段階へと関係は移行していく。



 第1話のBパート、放課後の図書室での汐と先輩のシーン。

 先輩に対して密かな視線を送っていた風間だが、このシーンではその一方的な視線が廃される。先輩と風間の視線が交錯、互いの瞳を直視する時が訪れるのだ。それは、視線が交わり風間の隠していた想いが告白される、というものではない。自分の想い人を汐に取られてしまった(厳密には取ってはいない。風間は勝手に惚れられているだけ)先輩が風間に対して涙を流しながら憎悪に満ちた敵意の瞳で風間の瞳を睨みつけるという視線の交錯が行われるのだ。あんなに優しかった先輩が視線の交錯によって、憎しみをあらわにし、すさまじい形相へと変貌する。先輩に送っていた視線がいつか先輩の元へと届き、それが自分の元へと好意の放射として返ってくるのではないかという風間の淡い期待は、先輩から送られてきた憎しみの視線によって打ち砕かれる。

 この視線の交錯は先輩と汐の間に決定的な変化をもたらす。怒りに満ちた敵意の瞳に見入られた風間はあれほど恋焦がれていた先輩にまったく近づくこと/会うことができなくなってしまう(その姿は第1話・第6話で描かれる)。密かにに送られていた視線も一切送られることはなく、その視線を送る姿が映し出されることはない。互いの瞳の中を凝視した、たった一度だけ視線が交わっただけなのだ。その一度だけで風間は先輩を避けてしまうことになる。視線が交錯した瞬間、先輩の瞳の奥底に風間は計り知れぬ自分への憎悪と敵意と「何か」を見出したのだろう。この作品においての視線の交差は他の作品での視線の交差とは違い、特権化されている。


 視線の交錯は決定的な変化を、拒絶という関係の変化を風間のもとへと運んでくることになる。



 風間と純夏の視線の交錯について。

 第6話のBパート、純夏の家に風間が宿泊し、純夏の部屋で枕を並べるシーン。

 部屋の明かりを消し、二人は眠りにつこうとする。風間が布団で顔隠す、それは好意を抱いていた先輩のこと想い涙が流れるのを隠すためだった。その事に気付き、心配する純夏。この一連のシーンでは、彼女たちの視線が交錯する・互いの瞳を直視するさまは周到に、徹底的に回避されている。顔を横に向けたり、天井を見上げたりと彼女は互いの顔/瞳を見ようとはしない。しかし、このシーンのラスト、あれほど視線を逸らしてきた風間と純夏は互いの瞳を凝視して、視線を交錯させる瞬間が訪れる。交錯したその時、風間の口から「大好き」という言葉が純夏に贈られる。それは、先輩のことで落ち込んでいた自分に対して、励ましの言葉をかけてくれた純夏に友達として感謝の意味の「大好き」なのだが、これは今までなかったことだ。ずっと願っていた「好き」という言葉が、「あの」風間の口から発せられるということは、純夏にとって、いや視聴者にとっても「一大事」以外のなにものでもないだろう。純夏は興奮して一晩中眠れないほどその一言に胸をうたれたのだ。視線が交わり二人の心は通じ合う。この視線の交錯が契機となり、物語も進展する。


 純夏にとっての一大事と言えば、第3話でのファーストキスのエピソードがその一つだろう。

 純夏と風間は第1話アバンの女子生徒たちとまったく同じシチュエーションでキスをすることになる。夕暮れ・放課後・誰もいない教室で。ただし一点だけ、風間が面をつけるという点だけが違ってくる。それは、本当のキスではなく面をつけてキスの練習をするという擬似的なキス。面という点を除けば、純夏にとっては本物のキスと同義のものであっただろう。ここで、一応彼女らの視線は交錯する。しかし、純夏が汐を見つめキスをしても、それは面によって遮られ、汐の視線もまた面によって遮断され、互いの視線が明確に交わることはなかった。厳密に言えば二人の視線は交錯していたのだろうが、互いの瞳の奥底を凝視することは面により不可能だ。その視線の交錯の不透明さ・中途半端さから彼女たちに明確な変化、それに伴う行動が起きたのかは、第3話において詳細には描写されない。純夏にとっては擬似的とは言え一大事であったと思うが、風間にとってはこの視線の交錯はほぼ意味のないものだろう(実際、この後に風間にはなんらかの変化があったかは描写されず)。この出来事の前にあった、風間と純夏が廊下でファーストキスについて話していたときの明確な視線の交錯の方が意味のあるものだろう。この視線の交錯によって、風間は純夏と放課後にキスの練習をしようと思い付く契機となるし、純夏は遠まわしな言い方だが秘めた自分の想いを吐露する。この視線の交差により、物語は動くのだ。二人の心が通じ合う具合を考えると前述した第6話の視線の交錯と面をつけた視線の交錯では、第6話の方がはるかに意味があるものだろう。仮面を介しての視線の交錯ではなく、瞳の奥底を凝視するほどの視線の交錯でなければ、人物たちには決定的な変化も行動も訪れない。


最後に、おまけ


 『ささめきこと』での「見ること」は、作品をより豊かにするために絶えず拡がりをみせる。複数の役割を演じながら、物語を駆動させていく大きな役割を果たす。


 『ささめきこと』では、見ることが作品の主題の一つとして機能しているのではないかと感じ書いてきたが、その一貫性には森脇 真琴や宮崎 なぎさの前では若干失なわれている節があるように思える。菅沼 栄治監督ではいかんなく発揮されるが。あと、メガネの女の子についても書きたいが、まだちゃんと登場してないので、今は書かないようにする。