『こばと。』第10話が面白い〜藤本清和の「向日葵」が咲くとき〜

ヒマワリと窓と藤本清和と沖浦清花


 第10話「…オルガンと少年の日。」には、「ヒマワリ」の描写が画面に氾濫していることが見受けられます。それは、藤本清和のバイト先(ビールの無料配布のキャンペーン)のポスターにさえも、「ヒマワリ」が組み込まれているほど(組み込む必要性はないのに)。この頻繁に登場する「ヒマワリ」は、第10話において多義的な役割を演じることになる。


 今回の挿話は、現在のよもぎ保育園と過去の(回想の)よもぎ保育園のエピソードが交互に描写されていきます。その現在と過去の時間を超越して画面に捉えられるのが、ヒマワリであり、現在と過去という時間軸の全く違う双方の出来事を、共通するヒマワリによって通じ合わせる機能を果たす。


 回想シーンでのヒマワリは、少年時代の藤本清和の心理の変化と照応しているようにみえます。藤本清和は孤児であり、よもぎ保育園の園長である沖浦清花の父親に引き取られることになる。藤本清和がよもぎ保育園にやってきた日に、父親、沖浦清花、藤本清和の三人で撮った記念写真での彼の顔に代表されるように、藤本清和は他者に対して心を全く開かず、人と関わらず、一貫として自閉していた。藤本清和が小学校から下校している時に映し出されるヒマワリは、ずっと閉じており(咲いておらず)、閉じたヒマワリを捉えたショットが印象的に挿入される(図1)。この時点で、閉じているヒマワリが、自閉している藤本清和と対応していることがわかるだろう。閉じたヒマワリ=閉じた藤本清和なのだ。もちろん、このヒマワリの描写は、回想シーンでの時間経過を表す役割も果たしており、藤本清和を指し示す一つの意味作用だけではない。ヒマワリが示唆するように、沖浦清花も園児たちも、自分の内面を外に出さない藤本清和の心をわかりかねていた。

図1


 下校のシーンの次のシーンで最初に捉えられるのは、開きかけているヒマワリ(図2)。なぜ閉じていたヒマワリが開きかけているのか? それは、作中の時間経過を示すの同時に、藤本清和の変化を示唆しています。沖浦清花は、園児たちがみんな帰り無人の夕暮れの部屋でオルガンの前の椅子に座る藤本清和を見かける。オルガンが好きなの? と沖浦清花は藤本清和に尋ねるが、逃げるように彼は部屋から走って出ていく。藤本清和がいたオルガンに沖浦清花が触ると、窓の外から園児の声が聞こえ、母親に連れられて自宅へと帰っていく園児たちが映し出される。ここで、沖浦清花は初めて藤本清和の内面に触れることになる(オルガンに触れたように)。藤本清和が窓から見ていたのは、園児たちとその母親たちの姿であり、父親も母親もいない孤児である彼は、その姿をオルガンの前に座りながらずっと見ていた。藤本清和の横顔を捉えたショットからディゾルヴして相似形の沖浦清花の横顔を捉えたショットに切り替わるトランジションが示すように、沖浦清花は藤本清和が見ていたものを共有することになる。このシーンで、けっして心の内を見せなかった藤本清和が初めて自分の内面を表にあらわす。そして、沖浦清花は彼の内面に初めて触れる(知る)のだ。このことから、前述した開きかけているヒマワリのショットが指し示すものが見えてくる。藤本清和はまだ心を開いてはいないが、自分の内面を沖浦清花(そして視聴者)の前にあらわにした。だから、ヒマワリが開きかけていたのだろう。


図2


 徐々に、ヒマワリ=藤本清和の心が変容していく様が映し出される。


 また、ここで描写される「窓から見ること」も重要な要素だ。この窓から見る行為は、後の回想シーンの中で反復されることになる。
 



 Bパートでの回想シーン。園児たちは花壇でヒマワリを大切に育てていた。この時、ヒマワリの花は開きかけたままであり、藤本清和もまだ沖浦清花たちに心を開いてはいなかった(「おかえりなさい」と沖浦清花が言っても、藤本清和は返事をしない)。


 園児の女の子が園内に入ってきたサッカーボールに驚き、転んでしまう。女の子が沖浦清花に泣きながら抱きつくと、フェンスが軋む音と同時に、男子学生がヒマワリへと倒れ込み、ヒマワリを倒してしまう。倒れこんできた男子学生は、園内に入ってきたサッカーボールの持ち主であり、ボールを取りにフェンスを越えて園内へと入ってきたのだった(園の門からではなく、フェンスを越えて入ることによって、彼らが侵入者だということを強調する。めちゃくちゃな悪者でもないのだけど)。沖浦清花は、入ってきた男子学生たちに、ヒマワリを倒したことと女の子が怪我するところだったことを抗議する。沖浦清花の抗議により、男子学生たちは園児たちに謝罪をする。この時、藤本清和は窓から男子学生に抗議をする沖浦清花の姿を見ている(アバンでも提示されている)。この「窓から見ること」が重要になってくる。窓を介して沖浦清花を見る藤本清和の姿は、前述した沖浦清花の姿を想起させるだろう(オルガンでの出来事)。沖浦清花が藤本清和の内面を窓を介して覗いたように、藤本清和もまた窓を介して沖浦清花の内面を覗くことになる。彼が見た沖浦清花の姿は、震えながらも園児たちのために男子学生に抗議する姿であり(男子学生二人を前に女性一人で立ち向かうのは、相当な勇気がいるものだったのだろう。現にボールや箒を持つ手が震えていたことから恐さを押し殺していた様子がうかがいしれる)、園児をとても大切に想っている沖浦清花を知ることになる。窓を介して見ることは、相手の内面を覗き見ることと同義であり、第10話では外部世界と内部世界の境界線である窓が、人の心の外面と内面の境界線の役割を果たし、その窓を介在して登場人物は他者の内面を見ることが可能となる。


 沖浦清花の姿を見た藤本清和は、ヒマワリが倒れ心配する園児たちを癒し、励ますかのように、オルガンを奏でる。藤本清和が奏でるオルガンの音と園児たちの歌に呼応するかのように開きかけていたヒマワリは満開の状態になる(図3)。沖浦清花のため、園児たちのために奏でているオルガンが、まるで藤本清和の自分自身の心を癒し、ときほぐすかのように、自分の心を開かせる。

図3



 オルガンによって、園児たちとの心の距離を縮めた藤本清和の周りには、前とは違い、園児たちが集まってくる。また、前は沖浦清花に「おかえりなさい」と言われても、口を閉ざしたままだったが、今度は「ただいま」と発し、言葉を返す。「おかえりなさい」と「ただいま」という言葉の交換(=コミュニケーション)が初めて作中で成立する。そして、彼はまたオルガンを奏でるのだ。「おかえりなさい」と言った時の沖浦清花を捉えたショットには意図的にヒマワリが隣に置かれている(図4)。ヒマワリの花言葉には「憧れ」というものがあるらしい。沖浦清花とヒマワリが同一のフレームにおさまったショットと、ヒマワリの花言葉が示すように、藤本清和は沖浦清花に対して「憧れ」に似た思慕の念を抱いているのかもしれない。なぜなら沖浦清花は、折れて倒れたヒマワリを立て直し満開にさせたように、藤本清和の折れた心を立て直し、閉じた心を開かせたから。

図4



 「ヒマワリ」は、沖浦清花たちを過去へといざない、現在へと呼び戻す。





最後に


 「ヒマワリ」を一つの主題として、物語を構成していたのが良かった。回想シーンにおけるヒマワリは、口を閉ざし、感情を表に出さない藤本清和少年の心を視覚化し、表には出ない彼の心を浮き彫りにする。そしてラストでヒマワリは、藤本清和ではなく沖浦清花の心情をあらわにする。



おまけ1〜カーテンを開けさせる〜


 アバン、眠っていた藤本清和は花戸小鳩の歌で目を覚ますことになる。起きた藤本清和の目の前のカーテンは、少しだけ開いており、その隙間からは光が差し込んでいる。その後の小鳩のドタバタ劇の五月蠅さから藤本清和は窓から身を乗り出して、小鳩に話しかける。Aパート、沖浦清花はカーテンを閉めて薄暗い部屋で電卓を打っていた。そこに、小鳩が登場し、天気がいいのでお布団を干しにきたと告げる。小鳩に天気がいいと言われ、天気を確認するために沖浦清花はカーテンを開ける。眩い光がさし込む。この二つの出来事に共通するのは、小鳩が閉じていたカーテンを開けさせる契機となっていること。小鳩はカーテンをきまって開けさせる役割を演じ、彼と彼女はカーテンを開ける。カーテンを開けて、人物たちが動きだすように(部屋から出るように)、小鳩は人物/物語を駆動させ、展開させていく。



おまけ2〜白い布団〜


 Aパート冒頭、花戸小鳩は住んでいるアパートのニ階の自室で白い布団を干す。その白い布団は、今回の挿話において度々捉えられる印象的な真っ青な空の中にある真っ白な雲へと連繋しているに思える。干された白い布団は、小鳩が住むアパートから、よもぎ保育園へと移行する。小鳩と沖浦清花は、園児たちの布団を屋上の太陽と青空と白い雲の下に干す。Bパート、干された白い布団を取り込む際に、小鳩と沖浦清花は、「お日様の匂い」の話をする。それは、干された布団にはお日様(太陽)の匂いがするというもの。太陽と一緒にある白い雲と、太陽の匂いがするという白い布団は、白のイメージと太陽によって連繋する。白い布団と白い雲が同じフレームにおさまっているショットが端的に示しているのではないだろうか。そして、ヒマワリも一緒に映し出される。まるで、真夏の空に輝く太陽と白い雲のイメージが地上の満開のヒマワリと白い布団のイメージへと映っていくようであり、白い布団はヒマワリへとも連繋する。



おまけ3


 ここら辺の小鳩のギャグが結構良かった。小鳩の髪が落ちるのを契機に小鳩が落ちそうになる。長い髪をうまく使っている。



 ビールの水滴と庭の水滴。