『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』 第7話「蝉時雨・精霊流シ」〜死者と生者が交錯する〜

 第2話「初陣・椅子ノ話」はクレハにスポットをあてた回、第3話「隊ノ一日・梨旺走ル」はリオにスポットをあてた回、第4話「梅雨ノ空・玻璃ノ虹」はノエルがメインとなった回、それで今回の第7話「蝉時雨・精霊流シ」はフィリシアが主役となった回。これで第1121小隊メンバーの当番回は終了した(カナタの当番回っていうのはあるのかもしれない)。


 第7話「蝉時雨・精霊流シ」は、「フィーエスタ・デュ・ルミエール」という川に灯籠を流し死者の魂を慰める行事を舞台に、フィリシアの過去が回想される。「フィーエスタ・デュ・ルミエール」とは、ノエルやカナタが言っている通り「お盆」と近い行事。死者の魂が現世にかえってくる時期に、フィリシアは過去を思い出す。


 第7話は、死者と生者が交錯することになる。



 ちなみに、タイトルにもなっている「精霊流し」は、長崎県の行事。全国各地のは、「灯篭流し」。


飲み込まれる・吸い込まれる


 Aパート冒頭。「ミネンラント戦線」(この表記であってるのかな?)でのフィリシアの回想が終わると、画面奥へと続く道が映し出され、次のショットでは画面奥の暗闇へと続く道が映し出される。この二つのショットは状況設定ショットとして映し出されたのだろう。だが、一つ目のショットは何故かT・Uしている(状況設定ショットの意味合いなら必要ないだろう)。この水平ではなく、若干斜めに捉えられているショットをT・Uすると、画面奥へと続く道に飲み込まれる・吸い込まれるような錯覚を覚える。その次に捉えられるのが暗闇へと続く道なのだから、闇の中へといざなわれているようだ。画面奥へと飲み込まれる・吸い込まれると云えば、フィリシアが銃撃によって地面が崩壊し、地下へと落ちていくところが思い出される。あのショットも、地下へと落ちていくというより、奈落の闇の中へと飲み込まれていく・吸い込まれていくようだった。地下へと落ちたフィリシアは、そこで兵士の亡霊と出会う。その空間は、生者であるフィリシアと死者である兵士が混淆する空間、この世ともあの世とも言い表せない場所。光が全く存在しない暗黒の闇に覆われた地下の空間は、現世と冥途の狭間としての空間だったのではないか。それは、「フィーエスタ・デュ・ルミエール」と照応する。ノエルが云う「死者の魂が現世にかえってくる」という事は、死者と生者が同じ空間に存在していることであり、「地下の空間」と「フィーエスタ・デュ・ルミエール」は類似したものではないか。「地下の空間」へ落ちる時も、「フィーエスタ・デュ・ルミエール」の一日が始まる時も、フィリシアは飲み込まれて・吸い込まれて、死者と生者の空間へといざなわれる。そこで、彼女は「フィーエスタ・デュ・ルミエール」の時も「地下の空間」の時も、兵士の亡霊と出会う(「フィーエスタ・デュ・ルミエール」の時は聞こえてくる風鈴の音によって画面奥の窓へといざなわれて、そこで亡霊の兵士を目撃する)。画面奥へと飲み込まれる・吸い込まれることは、フィリシアを現世と冥途の狭間へといざなう装置として機能しているように思える。




フィリシアと兵士の亡霊・響く希望の音


 地下の空間でフィリシアは亡霊の兵士と対話する*1。終わってしまった残りかすのような世界で生きる意味なんてあるのかと尋ねる亡霊の兵士に対して、フィリシアはうまく答えることができない。そこに「アメイジング・グレイス」の響きが聞こえてくる。フィリシアは涙を流しながら、「助けて。私ここにいます。生きてます。お願い。助けて下さい」と叫ぶ。そうすると、天井が崩落し、天上から光が差し込み、ロープが投げ込まれる(蜘蛛の糸のように)。ロープをつたって、一人の女性兵士が降りてくる。


 「地下の空間=残りかすの絶望・死の世界」に聞こえてくる、「アメイジング・グレイス=希望・生の音」。その音に呼応して、「生きたい」と叫ぶフィリシア。終わってしまった暗闇の絶望の世界で、唯一の希望の光は、響く「音」なのかもしれない。不器用ながらも「音」を奏でるカナタは、この世界の希望の一つではないのか。





 話はずれて。あの金髪の女性兵士は「イリア皇女殿下」だったのね。随分と偉い人だったんだな。教会の司祭が灯篭流しの最中に、「あの方は」と呟くのは、この「イリア皇女殿下」を見たのかしら。だったら、リオやフィリシアに会いにきたのかもしれない。



流れる死者の音楽

 

 バックグラウンドに流れる音楽。本編中に流れるときは、フィリシアの「ミネンラント戦線」時の回想、灯篭流しの時の、二箇所限って意図的に流される。カナタ達が日常生活をしているときには、音楽は流れず、蝉の鳴く音や、歩く音などしか聞こえてこない。「ミネンラント戦線」時の回想と灯篭流しの時に共通する事項は、どちらも死者が関係している時だ。回想では、多くの兵士が死に、フィリシアの同僚達も死ぬ、地下では旧時代の兵士の亡骸、亡霊の兵士と接する。灯篭流しは、死者の魂を慰める行事である。どちらも密接に死者が関係している。死者・霊と接するときにきまってBGMは流れ、カナタ達の日常生活時においては、BGMは流れない。このことから、第7話において、BGMは死と生との境目をあらわす装置となっているのではないか。地下の空間では、トランペットの「アメイジング・グレイス」が聞こえてくる前後にはBGMが流れない。それは、「アメイジング・グレイス」が希望の音・生の音だからなのかもしれない。


 BGMが流れない日常生活の方が、ちょっと不気味だけど。



俯くノエル

 

 第7話では、ノエルがうつむいてる描写が多く見受けられる。ノエルが第7話の本編中に初登場するのは、クレハと一緒に洗濯をしている時。クレハが掬いあげて吹いた泡がノエルの顔に当たる。この泡は、後に亡霊の兵士が云う「君たちは、残滓だ。最後に残ったひと掬いの泡」と関係していることは言わずもがなだろう。ノエルはどうやらフィリシアと亡霊の兵士が対話した場所「ミネンラント戦線」を知っているらしい。


 「フィーエスタ・デュ・ルミエール」をカナタに説明する時のノエルも、灯篭流しをする時のノエルもずっとうつむいたままだった。どうやら、「フィーエスタ・デュ・ルミエール」はフィリシアと同様にノエルにとっても、過去を思い出し俯くような行事らしい。灯篭流しの時、ノエルは一人だけ灯篭を持たなかった。カナタのように先祖の霊を慰めることも、クレハのように父親と母親を慰めることもしない。ここでちょっと話はずれる。第5話でクレハの元に一通も手紙が来なかったことを想起すると、彼女には父親も母親もやはりいなかったことがわかる。戦いのさなかに両親が命を落としたのかもしれないし、病でなくったのかもしれない。いずれにしろ、クレハには両親がいないことがわかった。第5話では、クレハに手紙は届かないが、ノエルの元に教授という人物から手紙が届く。この教授とはいかなる人物か?(ノエルの親族ではなさそうだ) 前述した通り、ノエルは先祖の霊も亡くなった身内の霊も慰めなかった。ノエルには慰める霊が存在しない。それは、ノエルには父親も母親も(先祖も)存在しないという可能性を提示する。父親と母親が健在なら慰める必要性はないが、だったら父親か母親かどちらからか手紙が届いてもいいのだろう。教授という人物の全容がわかってない現在では、何とも言えないが、他の第1121小隊とは違う特殊な環境で育ってきたということは確かな事実だと思う。でも、なんとなくなんだが、ノエルがどういう環境で育ってきたのかはもうわかっているような気もするんだけど。(第4話のノエルについて書いた記事を参照)。




おまけ


 カナタが作る精霊馬は、随分とエキセントリックだな。トマトとか、ブロッコリーだとか。


*1:暗闇の地下で灯されるマッチの明かりは、フィリシアの命の灯のよう