『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第9話が面白い〜父親と虚像と実像と〜

理想の父親と成長と


 第9話「台風一過・虚像ト実像」は、クレハとクラウスがメインとなった話。クレハは虚像から脱することができるのか。



 第5話「山踏ミ・世界ノ果テ」の記事で(参照)、クレハは父性を求めていると書きました。それを丸々引用。


 

・父性を求めるクレハ?


第2話の記事でこういうことを書きました。


「リオが父親であり、フィリシアが母親であり、クレハやカナタやノエルは娘たち。カナタの妹ととしてのクレハ。ノエルは・・よくわからない・・・。」


 頼りがいがあって男らしいリオは父親っぽくて、優しくて包容力があるフィリシアは母親っぽい。この二人を慕うクレハとカナタとノエルは子供たち。

 それで今回の第5話。リオを慕っていたというか、好意を抱いているような素振りを見せていたクレハの本命はクラウスだったことが判明しましたね。クラウスに土産を頼むとリオに言われ、嬉しそうに土産をクラウスの元へと持っていくクレハ。頬の赤らめ具合を見ると、クラウスに惚れてるようにしか見えません(憧れに似た想いなのかもしれません)。しかし、40歳ぐらいかなと思ってたクラウスの年齢を公式サイトで調べると、51歳っていうことがわかりました。おいおい、51って年上すぎんだろ。14歳よりも37歳年上じゃないか。どんだけおじ様好きなんだよ、とツッコミを入れたくなったり。でも、これって惚れていると言えるのだろうか? 父親と娘ぐらいの年の差ですし。どうみても父親と娘って感じがする。


 そこで、「クレハは父性を求めている」という考えが浮かびました。クレハがリオを慕っていたのは、父親っぽいリオに父性を感じていたのであり、彼女にとってリオは父親と同義だったのではないでしょうか。クラウスに対しても、父性を感じているため、尊敬の念を抱いている。クラウスが煙草で一服しているのを、頬を赤らめてまじまじと見ているクレハ。その男らしい仕草に惚れているのかもしれませんが、男らしいっていうか、おっさんっぽいというか、父親らしい仕草に惹かれているのかもしれません。


 ここで、「そもそもクレハはなぜ父性を求めるのか?」という疑問がわいてくるでしょう。それは至極単純に、「クレハには家族(父親)がいない。だから父性を求めている」のではないでしょうか。Aパート冒頭。カナタとノエルに手紙が届きます。カナタには母親から、ノエルには教授からの手紙が届き、二人は喜びます。カナタは「おかーちゃんからだ」とはしゃぎ、ノエルは「苗字がキョウ、名前がジュさん」という冗談をカナタに言います。なぜ、ノエルは冗談をこのタイミングで言ったのか。それは、カナタとノエルの仲が冗談を言えるほど親密になったからかもしれませんが、冗談を飛ばすほどノエルの気持ちが浮足立っているからではないかとも考えられます。教授の手紙にノエルはとても喜んでおり、思わず冗談が出てしまったという具合。カナタとノエルは喜びを隠せずにはいられない。楽天的な表情を見せ、はしゃぐ二人とは対照的に、ぽつんと一人で何も言わず浮かない表情でいるクレハ。カナタとノエルが同じテーブルの席に座っていたのに対して、クレハは二人よりも離れた位置の椅子に座っている。手紙が届く二人と手紙が届かないクレハを居る場所の位置関係によって差別化し、クレハの疎外感を増幅させる。クレハは、カナタとノエルとは別なのだと。


 カナタとノエルには家族や教授(=身内)から手紙が届き、クレハには手紙が届かない。手紙が届かないということは、クレハには家族が存在しないのではないでしょうか。そうすると、父親が存在しないことにも繋がってきます。何らかの理由でクレハの家族が手紙を出せない状況にあるのかもしれませんし、父親は存在しているが現在縁遠い状況にいることも考えられます。いずれにしろ、父性が欠如しており、ゆえにクレハは父性を求めている。父親の代替として、リオ、クラウスを求める。なるほど、彼女が母性のかたまりであるかのようなフィリシアよりもリオを慕っているのには、父性が関係している。


 クレハがクラウスに好意を寄せるのは、父性からではないのでしょうか。


 これを踏まえて、第9話について。




 クレハにとって、クラウスとリオは憧れの対象であり、それは伝説的撤退線の英雄であり尊敬できる実の父親の存在にも繋がってくるでしょう。クレハは父親について、人伝えで聞いた程度で、あまり知らないと本編中で語っている。そのためクレハが語る父親像は、一方的であまりにも理想的(現実を知らないために)。彼女にとって、父親とは尊敬できる存在であり、超人的な位置付けなのだろう。その理想的な父親像を、クラウスとリオに重ねてしまっている。実際は、クラウスもリオもクレハが思い描くような理想的な人物像とは程遠い。クレハは、リオの事を「クールでかっこよくて」と称している。それはクラウスにも当てはまる。だが、果たしてリオはクレハが思い描くような人物だろうか? Aパート。リオは倉庫でトランペットを奏でる(いつもとは違う感じに)。その音色を聞いたクレハは、「うわぁ〜、こういうのもできるんだ。さすがリオ先輩ね」と反応する。一方、カナタはトランペットの音色を聞き、不安を覚え、リオのことを心配する。リオが無我夢中でトランペットを吹いていたのは、自身の迷いや悩みのためだろう。それを、カナタは気付くが、クレハはまったく気付かない。リオが嫌いなピーマンを食べたことに関しても、カナタは普段とは違う異常な行動なために心配するが、クレハは最終的に「ピーマンを克服したんだよ」と云う。明らかにカナタとクレハでは、リオに関する認識が違う。クレハにとって、リオは完全無欠の人間で、悩みも苦手なものも存在しないと盲目的に信じ込んでいる状態。完全に盲信しており、リオの弱い部分を見ようとはしない(虚像だけに目が行っていて、実像を見ようとはしない)。では、実際のリオはどんな人物であるのかと云うと、クレハが思い描いている人物像とはかなり違ってくる人物だ。一心不乱にトランペットを吹く姿が示すようにリオは苦悩するし、ピーマンを克服することも出来ていないし、料理もできないし、Bパートで冷静さを失いフィリシアに窘められるように常時冷静沈着な人物でもない。リオは、クラウスと同様に、「クールでかっこいいリオ」を演じているのに他ならない。Bパートラストでクラウスが、憧れの対象で見られることがつらいと言っている時に、リオを捉えたミディアムショットが挿入される。それは、クラウスとリオが同じ立場だということを指し示す(俺は臆病だとクラウスの台詞はリオにも当てはまるのかもしれない)。クレハは、理想の父親像とリオを重ね過ぎている。実際の父親とはどういうものかと云うと、リオと父親の関係があらわしているだろう。リオの言動から見ると、父親という超人的なものでもなく、尊敬できる対象とは素直にいいづらいだろう(第1121小隊で、父親が描写されるのはリオだけ)。本当の父親というものは、クレハが思い描く理想的な父親像とは違う。理想の父親像はタイトルの通り虚像なのだ。理想の父親像=虚像から、クレハは脱することができるのか。実像を見つめることができるのか。


 Bパート。クレハはクラウスの胸にウルフヘッドのタトゥーがないことに気付く。それは、クラウスが「砂漠の狼・ミラクルクラウス」=「伝説的撤退線の英雄である父親」ではなかったことを意味する。今まで思い描いていた理想的な父親像=虚像が崩れた瞬間。クラウスは英雄でもなんでもなく、ただのクラウスだった。

 クレハは自分を一生懸命助けてくれた「ただのクラウス」を再選択する。「砂漠の狼・ミラクルクラウス」としてではなく、ただのクラウスを。虚像を演じている実像を選択したのだ。クレハにとって、今までのクラウスは虚像の存在だったが、実像の存在へと変貌した。クレハは虚像ではなく、実像を選択する。それは、盲目的に信じていた虚像から脱して、新たな成長を遂げたことを意味する。今まで、リオに対しても、クラウスに対しても、虚像として接してきた彼女だが、今度からは実像として接することができるだろう。


 クレハは成長した。第9話では、同じくカナタもノエルも成長している。今回、カナタのラッパの音色がクレハ達を助けることになる。まともにラッパをまともに吹けなかった彼女が、ずっと助けてもらってばっかりだった彼女が、ラッパの音色で人を助けることに至った。トランペットの音色で人を助けることができるリオやイリアに近づくことができた。

 ノエルに関しても、第4話でタケミカヅチは戦闘兵器であり、人殺しの機械だと気にしていたが、そのタケミカヅチが人の命を救うことに至る。ノエルが人殺しの機械から命を救う機械へと変貌させた。

 カナタもクレハもノエルも確実に成長している。


 では、リオはどうだろうか。リオは停滞している。第9話での彼女は、悩み、冷静さを欠き周りを動揺させ、ノエルやカナタのような活躍はせず、とても成長したとは思えない。リオはいつ成長した姿を見せてくれるのか。



おまけ〜突っつく〜


 ノエルは突っつくことを二回行う(カナタを突っつこうとするが、未遂に終わる)。一度目、ノエルはダンゴ虫を突っつく。ノエルが機械=無生物に興味を示すだけでなく、生物にも興味を示すようになって成長したんだなと思ったんだけど、次にタケミカヅチだと思われる戦車のおもちゃを突っつく。それは、Bパートで登場するタケミカヅチに繋がってくる。突っつくことは、タケミカヅチ登場の伏線だったんだな。