『世紀末オカルト学院』第7話「マヤの亜美〜ゴ」 食べ物、食べるということ


 第7話「マヤの亜美〜ゴ」は食べ物・食べることが頻出する。そのことについて色々と。



 『世紀末オカルト学院』では、食べ物が時折重要な役割を担っていることがある。それは、第3話について書いた記事で既に記したことだが、文明における「カレーライス」などが挙げられる。少年時代の母親との幸福な生活の思い出の象徴として、「カレーライス」が登場する。母親が文明にカレーライスを差し出したように、美風も文明にカレーライスを差し出す(ちなみに、文明はカレーライス以外を一切注文しない)。そのことが文明が美風に惹かれる要因の一つでもある。また、美風はサービスとして文明に「プリン」を差し出す。彼にだけ「特別」に差し出される「プリン」によって、文明はより美風に惹かれていくことになる。美風から文明に贈られる「プリン」という甘くてやわらかいデザートは、甘美な誘惑そのものといえる。邪推だが、オッパイ好きな文明(第3話についての記事を参照)を惹き寄せるのが、「プリン」だというのも気になるところ。第7話では、カレーライスを箸で食べようとする文明を見て、スマイルは怪訝そうな顔をする。カレーライスを箸で食べるという奇妙な行動をするのには理由があり(これまた第3話の記事を参照)、スプーンに対してトラウマがあるため、箸を使ってカレーライスを食べる。スプーンに対してトラウマがあるというのは何かというと、第3話の記事では「スプーンが曲げられなくなったら皆離れていった」と書いたのだが、その理由だけではなく第6話で明かされた文明が母親にぶたれる描写から、スプーン曲げによって変わってしまった母親の事もスプーンに対してのトラウマの一つなのだろう。母親との幸福な思い出である特別な食べ物である「カレーライス」を「箸」で食べるというのは、母親に対する複雑な心情のあらわれともいえるだろう。「カレーライス」は現在の文明の心情を雄弁に語っている。


  文明と母親の関係は、オカルトによって変わってしまったマヤの父・純一郎とマヤの関係と相似形だ。『世紀末オカルト学院』は、「父と娘」、「母と息子」という親子の物語とも云える(親とオカルトにどう向き合うのか・乗り越えていくのか)。それ故にか、今回は亜美の父・茂が登場し、「父と娘」の物語が展開される。亜美の母が一切姿をあらわさず、父だけが登場するのが示唆的だ(母と同居しているのか、別離しているのか、死別しているのかは不明)。茂もオカルト好き(怖い話好き)だが、彼は純一郎のように変わらなかった。変わってしまった「父と娘」がマヤと純一郎であり、変わらない「父と娘」が亜美と茂であり、第7話はマヤと亜美を対比させる形になっている(父を愛する亜美と父を嫌うマヤ。厳密にいうとマヤは父を嫌っているわけではないんだが)。繰り返し繰り返し、変わってしまったマヤと変わらない亜美を対照的に見せていく。幼い頃のマヤは、茂の話を聞いて「それで、それで」ととても興味を持っていたのだが、現在のマヤは茂の話に一切興味を示さない。亜美の部屋は昔と変わっていない。茂の舵で滑っている幼い頃の亜美と茂の運転でトラックの荷台に乗っている現在の亜美。昔と変わらない父と娘の関係。過去と現在を、徹底的に、繰り返し、強調して見せていく。茂は、マヤのためにJKとスマイルを使ってUFO騒ぎを起こすのだが、裏目に出てしまう。第6話で宇宙人の侵略を目の当たりにしたマヤにとって(鍵探しに真剣になっていること)、茂が起こした行動は無神経なものだったと云える(そんなこと、茂はもちろん知るはずもない)。茂に対して怒りぶつけるマヤを、亜美はぶってしまう(父を愛しているめに)。父を愛する亜美と父を嫌うマヤは、最後に対立する。

 今回のエピソードは、前後編であり、今後どう解消されるのかは第8話を待たなくてはいけなかったりする。マヤはどんな答えを出すのか。次回が気になるところ。



 いつの間にか、食べ物の話からずれてしまったので、話を戻す。第7話における食べ物・食べることを巧く使用していることについて。食べ物・食べること(飲むことも)を使って、登場人物の説明を的確に簡潔に語り、物語を駆動させていく。


 今回初登場する茂。情報の積み重ねのないこの男がどういう人物なのか・どういう性格なのかを一瞬にして、経済的に説明してしまうのが、アバンの茂がやかんの水を飲むのを捉えるショット。やかんに入っている水をこぼしながら豪快にがぶ飲みする茂。この描写をみたら、どんな性格の男なのか、一瞬にしてわかるだろう(飲み終わった後のリアクションも見逃せない)。この簡潔さ、明快さ。開始数十秒で茂という男がどういう人間なのかを水を飲むという行為でぱっぱと説明してしまう。水を飲む描写もだが、アバンは本当に素晴らしい。のこぎり、釘打機、金槌が奏でる律動的な軽快な音のリズムで物語は始まる。聴覚を意識した、音での導入。今回は音の物語ともいえる(反復される風鈴の音色やカップヌードルのフタが開く音などなど)。マヤが持っている買い物袋の反復とそれに伴う省略。マヤに自分を紹介するときにする茂が腕節を主張する芝居。この芝居一つを入れることによって、茂がどういう人物なのかをマヤに、視聴者にこれまた簡潔に経済的に説明する。アバンの数分で初登場の茂の人物像をおおかた説明してしまう手腕。見事だ。何気ないことで見逃してしまいがちだが、こういう描写こそ重要だと思う。いかに、的確且つ簡潔に、明快に語るか。



 マヤが、茂に接近していく様を、昔の関係性を回復していく様を、食べ物・食べることを使い描いていく。


 マヤの幼い頃の回想をみると、マヤは茂を慕っており、擬似的な親子とまではいわないが、とても親密な関係だったようにみえる。だが、現在のマヤと茂の関係は以前のような関係ではなくなっている。茂の話を最後まで聞かず、マヤはさっさと立ち去ってしまう。これから、どうやって昔のような関係性を回復していくのか。


 縁側でスイカを食べる茂と亜美。この構図は何回も反復される。この縁側が、この構図(同ポジ)が、どのような機能を果たすのか。縁側でスイカを食べるという行為が何を意味するのか。これらのことについて書いていく。



 黒木親子がスイカを食べる描写から、一人でカップヌードルを食べようとするマヤへと繋がれる。親子二人で食べる茂・亜美と一人で食べるマヤの対比。カップヌードルと烏龍茶のペットボトルでマヤのが忙しい状態にあること、それと同時にマヤの孤独をあらわす。ちなみに彼女がカップヌードルを食べる描写は欠落している。



 亜美に誘われ、マヤは亜美の自宅に向かう。そこで、マヤは茂が作った大きな握り飯を食べることになる。ここでマヤは食べ物を本編中初めて口にする。豪快な握り飯からは、またまた茂の人物像を簡潔に説明するのと同時に、茂の手作りの握り飯を食べることによって茂との関係性を回復しつつあることを示してくれる。食べることによって、茂と亜美とマヤは和合していく。この時は、茂が作った握り飯を食べるだけで、茂とは一緒に食べることはない。段階を踏まえて、茂と接近していく。



 晩飯を亜美の家で皆と食べることになったマヤ。皆でバーベキューをして、肉を食べる。不格好な握り飯、バーベキュー、これらの料理をみると茂という人物は料理があまりうまくないこと、もしくは出来ないことが示される(男でも出来る料理)。今度は茂も同じ場所で(同じ食卓で)、みんなで一緒にご飯を食べる。それは、和合の象徴であり(絆が生じること)、関係性が回復されたことを指し示す(だが、まだ茂が食べている描写はない)。バーベキューの後、縁側でマヤ・茂・亜美・こずえは同時にスイカを食べる。縁側で一緒にスイカを食べること、それは家族の一員であるということ(縁側は家族の場といえる)。亜美と茂の親子がスイカを縁側で仲良く食べるように、マヤも縁側で茂たちと縁側でスイカを食べる(こずえも)。スイカを一緒に食べることによって、マヤと茂は昔のような関係性をほぼ回復したことを暗示する(だが、マヤと茂の間の距離は若干離れている)。食べ物を使って、マヤと茂・亜美の関係性の回復を徐々に描いていく。食べ物・食べることを巧く使って、関係性の変化を表現していくのは、素晴らしい手腕。この後、マヤたちは皆で花火をして、眠りつく。



 一端回復した関係性だが、この後茂のマヤを思っての行動により、壊されることになる(しかし、その出来事によってマヤの心情は変化していく)。



 食べ物、そして食べることで、登場人物がどのような人間なのかを描き、絆の回復を描く。第7話は、食べ物・食べることが主題の一つだったと思う。



 それと余談だけど、第7話Bパートラストの車のライトやラストショットなどなど、良い所が結構あった。


 脚本/砂山蔵澄、コンテ・演出/村木幸也。


おまけ


 プリンを大量に食べるJK。やっぱ、今回は食べることがやけに多い。