東浩紀×山本寛対談〜アニメと批評の共犯関係〜「アニメージュ オリジナルvol.2」




アニメージュオリジナル animage ORIGINAL vol.2 (08.DEC (ロマンアルバム)

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東浩紀さんと山本寛監督の対談記事を読みました。かなり面白いことがたくさん載っており、とても興味深かったです。「アニメ批評はなぜ必要なのか?」という章では、東さんがサイトで語っていた「受け手」の問題、「業界」の問題がそのまんま書かれていました。あとは、「らき☆すた」の話や、ギミック関連、コンテンツのこれから等、二人が考えている今のアニメ業界の事が詳しく載っていました。その中でも、僕にとって一番興味深かったのが「アニメ批評はなぜ困難なのか?」という章で、僕が疑問に思っていたことがそのまま書かれていたので、かなり面白い内容でした。それで、その部分がどういう内容だったかというと。










アニメ批評はなぜ困難なのか?

東   今まで話したような業界の構造的な問題とは別に、アニメ批評がやりやすい/やりにくいという問題には、アニメという表現ジャンル自体が持っている難しさもあると思います。アニメは製作工程に大量に人がいるので、「こういう意図でこういう演出がされた」というとき、「それは誰の意図?」という話になる。仮に監督の意図と想定して書いたとすると、業界に詳しいライターさんから「いや、時間がなかったからああなっただけだよ」みたいなことをいわれるわけですが・・・・・・。





山本  単なる揚げ足取りでしょう(苦笑)。





東   いえ、確かに揚げ足取りではあるのですが、もう少し違うレベルの問題もはらんでいて・・・・・・。アニメは一見映画によく似ているから、評論をやりたい人は映画理論で語りたいわけですよね。でも実は、実写とアニメには決定的な違いがあるので、そこでまず躓く。たとえば、蓮實重彦やその弟子たちがやっている評論のロジックとは、こういうものです。この作品はこういうふうに作り込まれている、しかしここで監督はカメラを通して「出来事」だか「名指されないもの」だか、とにかく不意に出会った   批評とは、その瞬間をつかまえて伝えるものだ、と。これが基本的なテクニックで、別にこれは蓮實さんに限らず、20世紀後半以降、美術批評でも文芸批評でも、基本的にどのジャンルにおいても評論はこのロジックが優勢です。作り手が自分の計画を超えた何ものかに出会った瞬間を捉えて、読者に伝えるのが批評家の役目だと。


 でも、このロジックでアニメを批評するのは難しい。なぜなら、全ては絵コンテに描かれていて、不意には何も起きないから。アニメでは、作家が何かに不意に出会うという瞬間をつかまえられない。(実写)映画は現実が「外部」にあって、それを映像として切り取るわけです。ところが、アニメにはそういう「外部」がないんですよ。







山本  なるほど。押井さんがかつて仰っていた「アニメに偶然性はない。何かが偶然に映ったという瞬間は絶対にありえない」という考え方ですね。


 ですが、現場にいる実感としては・・・・・みんな、そこまで意図して作ってないんですよ(笑)。確かに「偶然に映ったもの」は存在しないのですが、「偶然描いたもの」は存在するんです。それこそ背景マンがいたずらに描いた小ネタから、アニメーターさんたちが何となく描いた絵が思ってもみなかった意味で受け取られたり、意図せず何かに似てしまったり・・・・・もちろん狙って描く場合もありますけど(笑)。そういう「意図しない図像」が生まれる瞬間はアニメにもあるし、演出もそれを必ずしも全部追えるわけではないので、後から指摘されて「あれ、そうだったっけ?」と気づく瞬間もあります。たとえば原画に限っても、アニメーターだったらそんなに何から何まで意図して、完璧に理論立てて描いてるわけではない。しかも、現状では「レイアウト」「第一原画」「第二原画」と3つのセクションに分かれることもあるので、そうなると誰のどんな意図が反映されているのかなんてわかんないんですよ。演出にしたって絵コンテと演出が別人の場合もある。僕自身、コンテを描かずに演出だけ担当することもありますが、その場合、コンテの意図と自分の意図を擦り合わせる瞬間はあります。この瞬間にも「この話数は誰のもの?」って分からなくなる。その前段階にシナリオもあるし、原画の後に動画もあって、仕上げもあって、撮影もあって、その後にも音響がある。声優さんがすごいアドリブをかまして、僕らが大笑いすることだってあるわけで(笑)そうなるともう、誰の意図がどこに反映されたのかなんて、ぶっちゃけ誰にもわからない事態に陥るんですね。



 いろんな人の思いつきを並べて集約したものが一本のフィルムになっている。誰のものでもあるし、誰のものでもないのがアニメかなと思うし、それがアニメを作るおもしろさでもあります。もちろん、それを最終的に「これは全部私の意図です」と言い切る責任は監督にあると思いますが、その盲点を突いて「作者の意図を超えたところ」で論じるのは可能だと思いますよ。




                 「アニメージュオリジナル vol.2」 55P〜56Pより一部抜粋


上で述べている事とちょっとずれているかもしれませんが、「TVアニメ制作において監督や演出家の作家性は、作品に必ず反映されるているのか」ということが僕にとってずっと疑問に思っていたことで、この話を聞くと必ずしもそういうわけではないようですね。


制作に大量の人が直に関わっているアニメ作品を論じることにおいて、「作者の意図を超えたところ」を論じるのが一番重要じゃないかななんて思いました。





この他にもアニメージュオリジナルには氷川竜介さんの記事が載っていて、アニメーション作品をを細かく分解して論じるというスタンスをみると、氷川竜介さんは批評家とか評論家じゃなくて、解説家や註釈家なんだなと思ったりしました。





興味が沸いたらご購入をお勧めしますけど、値段が1500円なので、貧乏学生にはちょっとつらい値段なんですよね・・・・。



簡易まとめ版

東浩紀×山本寛対談〜アニメと批評の共犯関係〜「アニメージュ オリジナルvol.2」アニメ批評関連簡易まとめ版 - あしもとに水色宇宙




アニメージュオリジナル animage ORIGINAL vol.2 (08.DEC (ロマンアルバム)

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