『けいおん!!』第13話「残暑見舞い!」〜梓が見る夢〜

 コンテ・演出/内海紘子回。脚本/横谷昌宏、作監/池田和美


夢と花火


 第13話「残暑見舞い!」で主に登場するのが梓と憂と純の三人。唯たちはというと、Bパートの夏祭りにしか登場しない(唯はラストの自宅のシーンにも登場する)。厳密にいうと、唯たちは夏祭り以外にも登場する。それは、梓の夢の中。今回、梓は繰り返し夢を見る。梓は4回夢を見る、1回目には唯、2回目には澪、3回目には紬、4回目には律(3年生全員が登場する)と各回に先輩たちが梓の夢の中に登場するようになっている。梓が見る夢は、現実のパートとは微妙に違う作りとなっているのだが、一瞬夢なのか現実なのか判別しにくい作りにもなっている。そのため、視聴者は一瞬、現実か夢なのかという戸惑いに囚われるだろう。現実から夢へと移行する際、あまりにもスムーズに違和感なく現実から夢へと移行するため、夢パートだと始めの部分は明確に気付けない。例えば、1回目の夢はAパート冒頭から始まるのだが、これが夢だという説明などありもせず(つまり、事前に梓が眠りにつく描写が欠落している)、ごく当たり前のように始まるため、夢パート開始直後は見分けることが困難になっているのだ。もちろん、夢と現実を見分けることは一瞬困難なのだが、すぐにこれは夢だと判別できる作りになっている。その判別できる要因は、梓の日焼けの跡があるかないかであり、1回目、2回目、3回目の夢は彼女の日焼けの跡が存在しないこと(日焼けをしていない)が、これが夢だということを明確にわからせるようになっている。また、夢が進むにつれ、現実とは乖離しているような出来事(4回目の夢におけるやきそば等々)が起きるため、夢だということは梓が夢だと気付く前から完全にわかる。それに加え、現実のパートでは水平アングルやFIX主体で構成されているのに対して、夢パートでは印象的なレイアウトやカメラワーク(それと特殊効果)など、現実と夢の差異を際立たせているため、夢パート開始直後は現実か夢かの判別にちょっと困るが、夢パートが進行したらこれが夢だということが自ずとわかるだろう。だが、4回目の夢は、梓が日焼けをしている。これでは、1〜3回目までのように日焼けの有る無しで判別できたのものが出来ない。梓が完全に日焼けしているか否か(全身くまなく日焼けしているかどうか)で判別することも可能だが、その判別方法では夢か現実かを確実に区別することはできない。1〜3回目は日焼けの有る無しという絶対的な確証があったが、4回目は既に梓が完全に日焼けをしたという可能性も残されているため、これが夢か現実なのか開始直後は判別不能になっているのだ。なぜ、夢パート開始直後の現実と夢の不透明さ、特に4回目の夢における現実か夢かの判別のあまりの不透明さが存在しているのか。それは、5回目の夢とも云えるものが存在しているからだろう。Bパート、夏祭りのシーン。唯たちは花火が打ち上げられていることに気付き、花火を見に行こうとする。そこで、唯は梓の手を握り、花火が見える場所へと急ぐ。ここで、梓は「また夢を見ているのかな」と既視感をおぼえる。この瞬間、梓も視聴者もまた夢パートなのか現実のパートなのか戸惑うだろう。この戸惑いのために(より効果的にするために)、夢パート開始直後の現実と夢の判別の不透明さが存在していた。4回目のあまりの不透明さは、5回目の踏み台として機能していたのだ(5回目の夢か現実かより不透明にするために)。5回目の梓が抱く夢か現実なのかという一瞬の戸惑いを、視聴者も追体験・共有できるように、現実なのか・夢なのかの不透明な導入が使用された。



 もちろん、5回目は夢ではない。間違いなく現実だ。だが、梓は一瞬夢かと思ってしまう。それは、4回反復された夢のためなのかもしれないし、眼前の風景の美しさで夢かと梓は感じたのも一因なのかもしれないが(梓は「綺麗」と呟く)、主たる要因は5回目にしてやっと本物の唯に会えたためだろう。反復される夢の中、唯・律・紬・律と出会う梓(梓が唯たちに抱くイメージが具現化されている。唯だとギター大好きとか)。だが、それは、夢・幻・嘘であり、本物の唯たちではない。梓は受験勉強のため忙しい唯たちとは会えなかった。あの反復される夢は、梓の抱える「唯たちに会いたい・一緒にいたい」という願望そのものなのだ。その願望であった夢が、5回目にして現実へと変化した。唯たちと会えた嬉しさのあまり、梓はまた夢なのかと思ってしまった(風呂場のシーンでも「夢かな」が反復される)。第13話は、梓がどれほど軽音部の先輩たちを求めているのか、必要としているのか、一緒にいたいのかが、反復される夢と云う形で具現化される回だった。


 梓は憂や純と行動をともにするが、この時梓は笑顔になることが少なく、退屈そうな顔をよく見せる(ゼリーを食べる時、ぬるくなったという憂に対して、愛想笑いみたいな笑顔を見せるが)。梓が明瞭に楽しげな笑顔を見せるのは、夏フェスでの思い出話や夏祭りで唯たちと喋っている時などの唯たちと関連する時に、楽しげに笑うのだ。そこから感じ取れるのは、唯たちと過ごす日々が憂たちと過ごす時間よりも楽しいということ。もちろん、憂と純と一緒に居る時も楽しいに決まっているのだが、唯たちといる時が一番楽しいことは間違いないだろう。やはり、梓は唯たちとずっと一緒にいたいのだ。だが、それは叶わないことだというのが描写される。例えば、先述した唯が梓の手を握り花火を見に行こうと連れ出すシークエンス。ここで、一度しっかりと握られた唯と梓の手は人混みの中で切断されてしまう。



 唯と梓の握った手が切断された瞬間、唯は人混みの消え去ってしまう。この後、梓と唯はまったく会うことはなく、離れ離れになってしまう(夏祭りで再び出会うことはなく、梓は家と帰ってしまう)。上空に漂う煙のショットが挿入され、花火が終わってしまったことが示されるのだが、それは梓と唯の別れを端的に示すものだろう。打ち上げられた花火の一瞬の美しさ・楽しさ(=軽音部・HTTでの日々)は、漂う煙へと変容してしまう(=唯たちの卒業よる日々の終焉)。



 唯と梓の繋がれた手が切断され(分断され)、離れ離れになってしまうのは、唯との別れを暗示しているだろう(唯と同様に律・紬・澪と出会うことがないのも)。唯が去った後に、純と憂と再び出会うのも、これからは唯たちとではなく憂と純と日々を過ごしていくことを象徴しているかのようだ。また、唯と梓が手を握り、別れるまでの一連の流れは、唯と梓の出会いから別れを模倣しているようにもみれる。唯と梓が手を繋ぐ瞬間が唯たちと梓の出会いであり、花火が打ち上げられてまるで夢のように思えた時間はHTTで過ごした唯たちとの時間であり、手の切断は唯たちの卒業と別離であり、あの一連の流れは、唯たちと梓が過ごした2年間の時間を凝縮したかのように機能していたようにも思える。部室から外で発声練習をしている人たちを見て他に部員がいたらと思ったり、純を軽音部に誘ったり、風呂場で一人になっちゃうんだと呟いたり、梓自身も他の部員を求めている(一人になること不安に思っている)。第13話は、唯たちと一緒にいたいという切実な願望、唯たちとの別れ(=梓一人になること)、他の部員を求める梓、と彼女が抱えている問題(悩み)が肌理細やかに、さりげなく描かれる非常に重要な回だった。

 話はちょっとずれるが、唯はなんと無邪気・無自覚なのだろう。梓は唯たちとの別れを少なからずとも意識しているのに、それに比べ唯(もしくは他の3年生)はあまりにも無自覚だ。花火が美しいのは一瞬だけということから梓は何かを感じ取った(それは別離)ように思えるが、唯といえば花火の綺麗さに魅了され、花火の一瞬に対して無自覚すぎるように思えた。つまり別離(軽音部からの卒業)に対して無自覚ということ。二人は花火という一緒の対象を見つめているが、感じていることはまったく別のことのように思える。



おまけ1


 第13話は伏線(というか細部の描写)がちょっと面白い。

 
 プールで梓が日焼けの跡を気にする所があるが、その前に梓の私服(レギンス)と制服(ロングスカート)が全て膝上を隠しており、彼女が日焼けの跡をどれほど気にしているのかが服装でわかるようになっている。細かい仕事。



 ラストの梓からの残暑見舞いには食い合わせの悪い食物が記されているが、そこに出ている食べ物は映画館のポップコーン(うなぎ)やゼリー(梅)など劇中で既に映し出されたものであり、伏線が張られている。



 夢パートでは、スイカバーがすいかに変身したり、梅ゼリーが梅ジュースに変身したり、現実世界と連繋している作りになっていたり。



おまけ2


 やきそばの中に唯たちが。