『氷菓』 京アニ演出家のスタイルの違い


 『氷菓』第17話「クドリャフカの順番」までを観て。演出家によって、そのスタイルが結構違うなと感じた。



 「人物に芝居をさせて表現するスタイル」と「カット割りやレイアウトで表現するスタイル」の二つがあると思った。第17話「クドリャフカの順番」のコンテ・演出を担当した石立太一さんは、後者に該当する。カット割りや構図で表現するスタイル。第17話においての奉太郎と総務委員長・田名辺の会話シーンや摩耶花と漫研の先輩・河内の会話シーンのカット割りなど、人物に芝居をさせて見せていこうというわけでなく、カットを割って割って、会話シーンを作り上げていく。特に、折木と田名辺の会話シーンなんて、ここまでカットを割るのかと思ってしまった(石立太一さんが担当した第3話「事情ある古典部の末裔」の喫茶店における奉太郎と千反田の会話シーンもそれだ)。


 レイアウトやカメラワークによって、人物の心情を表現していこうとしている。第17話は資質を持つ者と持たざる者の差異をテーマにしており、そのことに関して持たざる者として里志の心情を表現するために、カメラは彼に不必要に寄らずに、引いて彼を捉える(伊原においてもここぞという時は、ロングで捉える)。


 折木と田名辺の会話シーンは、多彩なレイアウトで見せていく。


 自転車に反射させて、見せたりする変わった見せ方をしたり。



 「暗号は解かれなかった」という台詞での田名辺の持たざる者としての哀しみを表すために、前景に自転車を配置し、自転車と柱の枠で彼を閉じ込め、窮屈で閉塞感があるフレームに。自転車の黒々とした影は、彼の心理的陰影に直結する。




 田名辺の「口で言えなかったから」のセリフと照応するように、遮蔽物で田名辺の口を隠す。



 カット割りやレイアウトで表現するスタイルには、他にも坂本一也さんが挙げられると思う。


 坂本一也さんも『氷菓』においてはカット割りで表現していくタイプで、第11話「万人の死角」なんてが最たるものだ。奉太郎と入須の会話シーンの大胆なカット割りとレイアウトは、印象的だろう(詳しくは前に書いたこの記事を参照)。

 話はちょっとずれるが、今は京アニを離れた高雄統子さんもこのスタイルであり、その極北みたいなものだ。徹底的に作りこまれた画面設計は『けいおん!』や『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイト回や『涼宮ハルヒの消失』、『アイドルマスター』で堪能できる。



 人物に芝居をさせて、シーンを作っていこう、表現していこうというスタイルは誰なのかというと、木上益治さんや山田尚子さんが挙げられると思う。ここで云う芝居というのは、アニメーターによる芝居ではなく、演出によって人物にさせる芝居のこと。第5話「歴史ある古典部の真実」での木上益治さんは、冒頭の奉太郎と里志の会話シーンで原作にはない人物たちを立ち止まらせて会話をさせるという芝居を選択する。それによってシーンをよりドラマティックなものに仕上げている(詳しくは前に書いたこの記事を参照)。




 山田尚子さんは、芝居だけでなくカット割りもカメラワークも豊かだ。芝居に関しては植野千世子さんの影響も大きいと思うが、それとはやっぱり別のものがある。第9話「古丘廃村殺人事件」での探偵役志願者たちの芝居。中城のぶっきらぼうさ、羽場のキザさ、沢木口の天真爛漫さを表すための手の動かし方や表情、豊かな所作はアニメーターの力もあると思うが、それらを見ると演出処理の山田尚子さんの方針に思える。『けいおん!』において、人物の芝居に凝っていた山田尚子さんらしいものだ。

 それに加え、千反田のウイスキーボンボンで酔っていく推移を描写する巧さ。酔った千反田の芝居なんていうものは、肌理細やか且つ愛らしいものに仕上がっている。




 第14話「ワイルド・ファイア」においても、料理対決シーンでの里志と千反田の料理の手付きの芝居は白眉であり、その仕草一つ一つが洗練されている。摩耶花の料理のシークエンスも見事だが、料理対決が終わり、里志に「おつかれ」と声を掛けられ、振り向いて里志たちに見えないように手を合わせる芝居は摩耶花の心情(褒められて嬉しいけど、他人は見られたくない)を巧みに表現したものだ。山田尚子さんの回は芝居の巧さから人物が生き生きとしている。




 京アニの演出家は、とても個性的で特色が強い。毎回、「私はこうやって表現していくんだ」という演出家の主張を見ていると飽きなくて、楽しい。京アニ作品の魅力の一つは、多様なスタイルを持った演出家が多くいることからくるものだと僕は思う。